*追憶*

The Last Chapter


 愛があるから、こうして笑っていられるのだと思う。
 吉羅と寄り添いながら、香穂子は幸せが滲んでくるのを感じる。
 もう何も愁いはない。
 このひとに着いていけば良いと、香穂子はこころから感じた。
 憎いと思ったこともあった。
 だが、吉羅を愛するこころには、勝てなかった。
 吉羅が愛しいからこそ、ここまで頑張る事が出来たのだ。
「…香穂子、あのマンションの部屋の割振りを変えなければならないね」
 吉羅は意味ありげに見つめてくる。
「あきちゃんはまだ小さいですが…、その…私もあなたと一緒にいたいというか…」
 香穂子がはにかんで言うと、吉羅は頷く。
「たまには川の字で眠るのも良いからね。ただ私としては…、君を抱き締めて眠りたいという気持ちもあるからね。川の字もどちらも魅力的だから、これは困ってしまうね」
 吉羅が苦笑いをすると、香穂子も釣られて笑う。
「いずれあきちゃんはひとりで眠らないといけないでしょうから、あきちゃんの部屋を作って、私たちの寝室を作ってというかたちにしなければならないでしょうから…」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅も頷く。
「あのマンションは直ぐに手狭になる。だからいずれは家族で暮らせるような家を手に入れなければならないね」
「…そうですね。私はこちらに引っ越して来なければならないからね。あまり荷物は持たない主義だから、そんなにはないのだがね」
 吉羅と暁愛との三人で手を携えての時間が始まる。
 香穂子にとっては大切で幸せに夢見るような時間の第一歩だ。
 香穂子は、愛するふたりを見つめて、誰よりも幸せであることをこころから確かめていた。

 吉羅とふたりきりの時間になり、お互いのこころを分け合うように愛し合う。
 本当にこんなにも幸せで良いのだろうかと、思わずにはいられない。
 ふたりでしっかりと抱き合い、香穂子は吉羅に甘えるように肢体をすり寄せた。
 これでようやく素直に甘えることが出来る。
 吉羅もまたたっぷりと甘えさせてくれた。
「…私、ものすごく幸せです…。こんなにも幸せなのは、他にないんじゃないかって思うぐらいです」
「私もとても幸せだ。香穂子」
 吉羅に呼び掛けられて、香穂子は顔を上げる。
「…有り難う…。君のお陰で、私はとても幸せな気分だ…。暁愛に“パパ”と呼ばれた時は、本当に嬉しかったよ。本当に…」
 吉羅は思い出しただけで胸が詰まるのか、声を僅かに震わせてくれる。
 吉羅の想いが伝わってきて、香穂子は自身が泣きそうになった。
「…ずっと呼ばせてあげたかったんです…。だけど…、もし…」
 香穂子は胸が苦痛の余りに顔を歪める。
 もうあのような想いは、二度と経験したくはないかった。
「…以前のように、裏切られるかもしれないと…そう思っていたんだね? 傷つけられるかもしれないと…」
 香穂子はためらいがちに頷く。
 裏切られるだとか、傷つけられるだとかは、本当はなかったというのに。
 コミュニケーション不足と、恋するが故の不安は、危険な想像に発展するものだ。
「あんな想いをしたのだから…、仕方がない。今となってはね…。私たちはお互いに真剣な恋であるが故に、盲目になってしまっていたのかもしれないね…。だけど、誤解をとくことが出来て、本当に良かったと思うよ」
 吉羅は苦笑いをすると、香穂子を更に抱き締めてきた。
「…愛しているよ。君だけを生涯愛するよ…」
「暁彦さん…」
 吉羅と唇を重ねると、ふたりは再び愛を交わす。
 愛は枯れることがない。
 それどころか溢れてくるのだと、香穂子は感じずにはいられなかった。

 愛し合った後で、ふたりはゆったりとしたパジャマを着て、暁愛が眠る部屋に向かう。
「やはり川の字も捨てがたいね」
「そうですね」
 香穂子がくすりと笑うと、ふたりは愛しい天使のように眠る息子を見つめた。
「癒されるね…。君と暁愛には本当に癒されるよ…」
「…私もあなたと暁愛には癒されていますよ」
ふたりは微笑んだ後で、ベッドにそっと上がる。
 暁愛を中心とした川の字だ。
 香穂子と吉羅は手を結びあうと、そのまま目を閉じる。
 良い夢が見られそうだった。

 月が満ちる日に授かった子どもだからか、同じように月が満ちる日に、ふたりにとっては二番目の子どもが生まれた。
 生まれたのは女の子。
 吉羅の面影と香穂子の面影を宿していて、何処か美夜にも似ている。
「赤ちゃん! 女の子なんだね!」
 暁愛は本当に嬉しそうに言うと、ベッドで眠る妹を覗きこむ。
「可愛い」
 暁愛はまるで自分の子どものように見つめている。
「あきちゃんもお兄ちゃんだね。妹だから、大切、大切に、可愛がってあげてね」
 香穂子が話し掛けると、暁愛は神妙に頷く。
「赤ちゃん、可愛がるね」
「有り難う」
 香穂子は、日に日に成長していく息子を頼もしく思いながら、目を細めた。
 妊娠中の体調が辛い時も、吉羅とふたりで香穂子を気遣ってくれた。
 暁愛の時程は、辛くはなかったのは、やはり女の子だったからだろうか。
 吉羅は、娘を見つめる息子を、愛しげに見ている。
「とうちゃ、しゅごく赤ちゃん可愛いでしょう?」
「そうだね。すごく可愛いね。暁愛、この子をしっかりと守ってやるんだ。兄としてね」
「うん!」
 兄としての自覚があるのか。
 それとも小さな自分の子分が出来たのだと喜んでいるのかは、解らない。
 だが、こうして兄としての自覚を持ってくれるのは嬉しかった。
 子どもは日々成長している。
 吉羅への愛情も日々深まっていくのを感じる。
 ふたりは何があっても、もう離れることがないことを、香穂子はこころから感じている。
 娘が授乳を促すような仕草をしたので、香穂子はにっこりと笑っておっぱいをやる。
 暁愛も最初は興味深く見ていたが、直ぐに物欲しそうな顔をした。
「ママ、おっぱい、後でちょうだいっ!」
 暁愛は何処か思い詰めるような表情をしている。
 妹に嫉妬をしているのだろう。
 ここはちゃんと対処をしてあげなければならない。
「じゃあ、赤ちゃんにおっぱいをあげたら、あきちゃんにあげるね」
「うんっ!」
 暁愛は納得するように頷く。
 やはり、兄の自覚はあるとはいえ、まだまだ小さいからだろう。
「暁愛、ママを余り困らせるな」
 吉羅はやんわりといいながらも、息子の肩を抱いた。
「…だってとうちゃ欲しいんだもん…」
 小さくなっている息子に、香穂子は笑みを浮かべた。
 娘がおっぱいを飲み終わった後、香穂子は吉羅に渡す。
「お願いね」
「解ったよ」
 新生児を抱くのは初めてのせいか、吉羅の手つきは少しだけぎこちない。
 香穂子はくすりと微笑みながら、息子を抱き上げた。
「さあ、おっぱいをあげようか。あきちゃん」
「うん」
 暁愛は、まるで赤ちゃんの頃に戻ってしまったかのように、香穂子に甘えた。
「ママ…」
 香穂子は息子をギュッと抱き締めてやる。
 臨月に入ってからというもの、抱き締めてやるのが難しかったからだ。
 暁愛に授乳をしながら、香穂子は背中を撫でてやる。
 吉羅とまなざしを交わして微笑み合う。
 こんなにもしあわせな瞬間は他にないと感じながら、香穂子はいつまでも微笑んでいた。

 退院の日、親子四人で新しく出発する。
 香穂子の横に立つと、吉羅は囁く。
「有り難う。君を昨日よりも愛しく思うよ」
 吉羅の言葉に、香穂子は柔らかく微笑んで呟いた。
「…有り難う…。私も昨日よりもあなたを愛しています」

 これぞ奇跡。
 ひとを愛する事こそ、この世界の最大の奇跡。


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