*追憶*

34


 吉羅と部屋に入り、ふたりは向き直る。
 吉羅は、後悔してもしきれないとばかりに、溜め息をひとつ零していた。
「香穂子、こうなったのは…、私の言葉足らずと、君なら何を言っても構わないという傲慢さから来たのは解っている。本当にすまない。申し訳ないと思っている」
 吉羅は実直に謝ると、香穂子に切なそうなまなざしを送ってきた。
 こんなにも痛くて切ない目をする吉羅を見るのは始めてだ。
 まるで迷子になった子どものような瞳だった。
「…自分が許せなかった…。なのに、君が悪いのだと勝手に思い込もうとしていたんだよ。それは本当に申し訳ない…。そう思わなければ、私は君なしで生きてはいけなかったんだよ…」
 吉羅は、思い出しただけで苦痛とばかりに、唇を歪める。
 こんなにも辛くて切ない表情はない。
「…君を忘れようと…、他の女性にも目を向けたが…駄目だった…。君を思い出してしまっただけだったからね。手を尽くして君を探したが見つからなくて、気が狂いそうになったこともある…。そんな空しい時間の繰り返しの日々に、君が再び現われたんだよ」
 吉羅は唇に笑みを浮かべると、香穂子の頬に手を宛ててくれる。
 言葉では上手く表現することが出来ない愛情が、手のひらを通じて伝わってくる。
 本当に嬉しくて言葉にすることが出来なかった。
「…君に子どもがいると聞いた時、自分の子どもでなくても構わないと思った。君の子どもなら愛することが出来ると…。最初から、君と子どもは離さないと誓ったんだ」
「…暁彦さん…」
 吉羅の深い愛情が感じられて、香穂子は顔を涙でグチャグチャにしてしまう。
 体裁に関係ないと思える程の表情になった。
「…有り難う…。暁彦さん…。そんなに私のことを考えてくれているなんて思わなかった…。あなたは、暁愛に対する義務感から…、一緒になろうと言ってくれていると思っていたから…。有り難う…」
 香穂子が涙で前が見えなくなってしまうほどに泣きじゃくると、吉羅が強く抱き締めてくれた。
「…私が言葉足らずだったのがいけなかったね。別れてからもずっと君を愛していた。ずっとずっと君を愛していたんだ。嫌いになろうとしても出来ないほどに、君が愛しくてしょうがなかった。君以外の女性を、最早、愛することが出来ないと思っていたんだよ…」
 吉羅は軽く深呼吸をすると、更に香穂子を抱き寄せてくる。
「暁愛を見た瞬間、本当に嬉しかった。嬉しくて堪らなかった…。君が私の息子を産んできちんと育ててくれていたことが…。本当に有り難うと思った。だからより君を離せなくなってしまったんだがね」
「あなたを愛していたから、中絶なんて出来なかった…。あなたを得られないのなら、せめて赤ちゃんだけは欲しいと思ったんです。産むことに何のためらいもなかったし、後悔もしていません…」
「本当に嬉しかったんだよ」
 吉羅は香穂子の髪を柔らかく撫でる。
「君を本当に離したくない…。私は、君がいなければ、きちんと生きていくことが出来ない人間になってしまっているんだよ…。香穂子、もう出て行かないね…?」
 いつもはあんなにも自信ありげな吉羅の声が、不安で揺れているのが解る。
「何処にも行きません。あなたのそばにいます。そばにいて構わないですか…?」
「そばにずっといて欲しい」
 吉羅は静かに言うと、香穂子に唇を近付けてきた。
 柔らかく唇を重ねられて、香穂子は幸せの余りに酔っ払ってしまいそうになる。
 こんなにも幸せはない。
 何度もキスを交わしながら、ふたりはお互いの想いを交換しあった。
 キスの後、吉羅は香穂子の瞳を覗き込む。
「改めて言う…。結婚してくれないか?」
「はい。喜んで」
 香穂子は満面の笑顔で返事をしたつもりだったが、やはり嬉しさの余りに涙がこぼれ落ちてくる。
「有り難う。改めて言うよ。君を幸せにする。勿論、暁愛も幸せにする」
「有り難うございます。私も改めて、あなたを幸せにします」
 香穂子が泣き笑いの表情を浮かべると、吉羅はもう一度唇を重ねてくる。
 幸せのキスは甘い、甘い味がした。
「香穂子、これから婚姻届を出しに行こう。後は君の名前とサインだけだ。暁愛の認知と、私の戸籍に入れる準備も出来ているからね」
「…有り難うございます」
 吉羅の言葉に頭を下げる。
 これから新しい時間が始まる。
 愛する新しい家族を作って行くのだ。
 吉羅は、婚姻届と万年筆を香穂子に差し出してくれる。
「有り難うございます」
 証人の欄には、吉羅の姉夫婦の名前が書かれており、香穂子は取りに行った書類はこれなのだろうと思った。
 名前をいつも以上に丁寧に書いた後、香穂子は吉羅に婚姻届を渡す。
「…お願いします」
「有り難う」
 吉羅は丁寧に婚姻届を内ポケットに入れた後、香穂子を見つめた。
「…さあ行こうか。暁愛と一緒に役所にいって籍を入れよう」
「はい」
 ふたりは手を繋いで部屋を出ると、暁愛を預けているベビールームへと向かった。

「ママ!」
 香穂子と吉羅の姿を見るなり、暁愛は走ってやってきた。
「お待たせしちゃったね」
 香穂子が言うと、暁愛は首を横に振る。
「ママ」
 暁愛はそっと香穂子に耳打ちをする。
「うん。有り難う。そうして貰って良いかな?」
「あいっ!」
 暁愛は笑顔で元気良く答えると、吉羅をじっと見上げた。
「何かな、暁愛」
 暁愛はほんの少しだけ恥ずかしそうにした後で、吉羅を笑顔で見る。
「…パパ…」
 暁愛の柔らかな子どもらしい呼び掛けに、吉羅は息を呑む。
 一瞬、吉羅は動揺をしてしまっているかのようだったが、直ぐに笑顔で息子を見つめた。
「…有り難う…。こんなにも嬉しいことはないよ…。本当にどうも有り難う。暁愛」
 吉羅は息子を抱き上げるとそのままベビールームを出る。
 横を歩く香穂子に、吉羅は本当に嬉しくてしょうがないとばかりの笑みを向けて来た。
「香穂子、本当に有り難う…」
 吉羅の言葉に、香穂子もただ頷いた。

 車で役所に向かい、ふたりは婚姻届を提出する。
 それと同時に、暁愛を認知する手続きを取った。
 これで三人は家族だ。
 正真正銘の。
「有り難うございます。本当に嬉しいです」
「今日はうちに帰ってゆっくりしようか」
「そうですね。あ、あの家はそろそろ出ないと、拙いんじゃないですか…? 暁彦さんの会社のものだから…」
「…それは…いつまでいても構わないんだ」
 吉羅は歯切れの悪いように言うと、香穂子に向き直った。
「…あれは姉が所有をしているマンションなんだよ。実は…。あのマンションの権利を買い取るために、姉と話をしていた。だから、その書類を取りに行ったんだよ…」
 吉羅は照れくさそうに言うと、僅かに俯く。
 香穂子は、吉羅の表には見せない優しさに、大粒の涙を零す。
 吉羅にこんなにも愛されていたのだ。
 なのに愛されていないと、勝手に重い解釈をしていたのだ。
 そうしたほうが、精神的に楽になれると思っていたのかもしれない。
 香穂子は吉羅に抱き着くと、その硬くて広い胸に顔を埋めて泣く。
「…有り難う…。本当に有り難うございます…。私…、あなたに甘える余りに、鈍感になってしまっていたのかもしれない…」
「香穂子…」
「あなたの優しさや愛をこれからも見守っていて下さい」
「勿論だよ。そうするつもりだ」
 吉羅は、息子がそばにいるのにもかかわらず、キスをくれた。


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