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吉羅の車に乗り込んで、香穂子と暁愛はホテルへと向かう。 「パンケーキが有名なホテルだからね。暁愛も喜ぶだろう」 「そうですね」 香穂子は緊張ぎみに答えながら、息子の手をギュッと握り締めた。 吉羅の車は都内に入り、高級老舗ホテルに向かう。 車が駐車場に停まった瞬間、胃が強張るような緊張を感じた。 「…行くか」 「はい」 香穂子は先に降りた後、息子をチャイルドシートから降ろす。 「ママ! おいちいのたべられう?」 「ああ。美味しいパンケーキを食べようか」 「あいっ!」 吉羅の言葉に、暁愛はご機嫌にも声を上げる。 本当に嬉しそうに笑う息子に、吉羅は目を細めた。 吉羅は息子の手を引いて、ホテルに入っていく。香穂子はその後ろをゆっくりと追いかける格好になった。 パンケーキを食べさせてくれるカフェコーナーに入り、眩しいほどに心地好い陽射が注ぐテーブルへと案内される。 吉羅が既に予約注文をしてくれていたせいか、焼きたてのストロベリークリームパンケーキが、それほど待つことなく出て来た。 「うわっ!」 暁愛は本当に嬉しそうに笑うと、吉羅は今にも蕩けてしまいそうな嬉しそうな顔をする。 「私が食べさせるから、君は食べなさい」 「有り難うございます」 香穂子は、それでも息子の食べる様子が気になって、一口食べるまで待った。 「うわあ! おいちいっ!」 「良かったな暁愛」 「よかったね」 香穂子がにっこりと笑うと、暁愛は益々嬉しそうな顔をする。 香穂子も一口食べたが、本当にこころから美味しいと感じた。 「美味しいね、本当に」 香穂子がパンケーキを食べていると、吉羅はフッと微笑む。 「香穂子、暁愛はこのホテルのベビールームに預けるから」 「…はい」 暁愛をベビーシッターに託すのは、香穂子としてはかなり切なかったが、吉羅と話し合うためには仕方がないことだと、割り切ることにした。 パンケーキを食べ終わる頃、カフェに現われた美しい女性に、香穂子はハッとする。 その女性は、吉羅の愛人の人妻だ。 隣りには同じ年頃の落ち着いた男性がいた。 「お待たせしたわね、暁彦」 艶のある優しい声に、香穂子は追い詰められるような気分になる。 今更、こうして対面をしなければならないなんて、傷口にカラシを塗り込まれるようなものだ。 香穂子はいたたまれなくなって、息子を連れて立ち上がろうとした。 「待つんだ」 吉羅は制するように言い、香穂子を座らせる。 「…この子が暁愛ちゃんね。暁彦によく似ているわ。本当に可愛いわね。私の甥っ子だから、可愛いのは当然だけれどね」 香穂子は一瞬、耳を疑う。 甥っ子。 つまり、香穂子がずっと愛人だと思っていた相手は…。 香穂子が驚いたように吉羅を見ると、静かに頷いてくれた。 「…そうだよ。彼女は私の姉なんだよ…。よく見れば、私たちはよく似ているだろう? 姉は海外にいるから、私たちは離れて暮らしているからね。君に紹介するタイミングがなかなか計れなかった。言葉足らずのうちに、君は…、何処かに行ってしまった。姉を私の最愛の女性だと勘違いだしているのだと、後から気付いた…。だが、誤解を解くには、君が何処にいるかが分からなかったからね…。…私も、君に誤解を与えるようなことを言ったから、自業自得何だろうけれどね…」 「暁彦さん…」 香穂子は事の真相を知り、涙が零れそうになる。 こんなにも切ない勘違いは他にないのではないかと思った。 「…初めまして、香穂子さん。私は、暁彦の姉の美夜と言います。こちらに帰ってきた時に、暁彦を呼び出したりしたせいで、あなたに誤解を与えてしまってごめんなさいね」 美夜は、吉羅によく似た微笑みを浮かべると、香穂子をまっすぐ見つめる。 「暁彦の子どもを産んでくれてどうも有り難う。暁彦を愛してくれて、どうも有り難う。あなたのお陰で、どうしようもないほどにわがままで、ぼっちゃま気質のこの子が、変わる事が出来たんだから」 美夜がにっこりと笑うと、吉羅は姉を軽く睨み付けた。 それでも美夜は平気な風に余裕の笑みを浮かべていたが。 「…あなたにね、これからも暁彦を見守って欲しいと言いに来たの。あ、昨日は弟を呼び出してごめんなさいね。今日、急遽帰ることになったから、渡さなければならない書類があったのよ」 にっこりと微笑むと吉羅の姉は、香穂子の頬を柔らかく撫でた。 「私のことであなたに苦しい想いをさせてしまっていたら、本当に申し訳ないわ…。ごめんなさいね。弟もああいう性格で、言葉足らずなところがあるから…」 美夜の柔らかな声に癒されながら、香穂子は涙が零れ落ちるのを感じた。 「暁彦を宜しくね。どうしようもない弟だけれど、本当にあなたを愛しているから…」 吉羅の姉は、香穂子を見つめながら頷いてくれる。 それが嬉しかった。 「有り難うございます…」 「私こそ有り難うよ。ようやく弟が家族の素晴らしさや愛の素晴らしさを感じることが出来たのだから…。それを教えてくれたのは、香穂子さんあなただわ。本当に有り難う」 「美夜さん…」 繁華街で吉羅とよく見掛けた女性。 姉弟ならば、納得がいく。 それによくよく落ち着いて見ると納得が出来ると思うほどに、本当によく似ていた。 美夜はまるで吉羅に女装をさせればこうなるのではないかと思うほどだ。ふたりはそれぐらいによく似ていた。 「これから成田に向かうの。短いけれであなたに会えて嬉しかったわ。暁彦、香穂子ちゃんにきちんと話をして、気持ちを伝えるのよ。解ったわね」 「解っています」 吉羅は姉には頭が上がらないようで、苦笑いを浮かべて頷く。 「私の愛しい甥とは、またゆっくりと会いたいわ。今度はゆっくり遊びましょうね、暁愛」 美夜は暁愛の柔らかな頬を撫でると、にっこりと笑った。 美夜が行ってしまうと、香穂子は涙を滲ませたままの瞳で吉羅を見つめる。 「…有り難う…」 「これからもう少しきちんと話をしようか。暁愛を少しだけここのベビーシッターに預けて、ふたりでゆっくりと話をしよう。特別に部屋を一室確保して貰ったから」 「はい…」 香穂子は頷くと、息子に指先を伸ばす。 「…あきちゃん、少しだけママは、吉羅さんと話があるからね。あきちゃんは楽しいところで待っていて貰えるかな?」 「たのちいとこ?」 息子は少しばかり不安げなまなざしを香穂子に向けてくる。 それを包み込むように、香穂子は見つめてやる。 「とっても楽しいところだよ。あきちゃん。それとね…」 香穂子は小さな声で暁愛に耳打ちをする。 魔法の言葉を。 すると暁愛はにっこりと頷いた。 「…じゃあ行くか」 三人は席を立ち上がると、カフェを出て、先ずはベビールームへと向かう。 そこで息子を預けて、香穂子はギュッと抱き締めた。 「…あきちゃん、直ぐに戻って来るからね。待っていて」 「…うんっ!」 息子の明るい返事に、香穂子はにっこりと頷くと、そっと立ち上がる。 「じゃあ行ってくるね」 「暁愛、直ぐに迎えに来るから」 吉羅と香穂子の言葉に安心をしたのか、暁愛はしっかりと頷く。 その愛らしい姿を胸に焼き付けて、吉羅と共に、ホテルの上階へと向かった。 どのような話があるのかは解らない。 だが、それは掛け替えのないと思える程の幸せがあると感じていた。 後少しで夢見た幸せが手に入るのだと、香穂子は確信していた。 |