*追憶*

32


 吉羅は電話の主をディスプレイで相手を確認する。
 出ないでとは声に出して言うことが出来なかった。
「…はい、暁彦です。はい、あなただから電話に出たんです…」
 香穂子は苦い想いがこころに滲んでくるのを感じる。
 あの時と全く同じだ。
 何も変わらない。
 背中にあの時と同じ絶望が流れていくような気がした。
 どうか。
 行くとは言わないで。
 言ってしまえば、あの時と同じことになってしまうから。
 あんなにも切ないことはなかった。
 だが期待とは裏切られるためにあると、香穂子は感じてしまう。
「…解りました。直ぐに参ります」
 香穂子は、デジャヴに陥った気分になる。
 電話の相手はあの女性だ。
 年上の女性だ。
 香穂子はこころがバラバラになるのを感じながら、黙るしかなかった。
 吉羅は携帯を閉じると、香穂子を見た。
「すまない。すぐに行かなければならないようが出来た。すまないが、君を送っていくから、ここで切り上げてくれないか?」
 香穂子は即答することが出来なくて、暫く黙り込む。
「君には申し訳ないと思っている…。暁愛とふたりにはきちんと埋め合わせをする」
 吉羅は本当に申し訳なさそうに言うと、香穂子と暁愛を見つめた。
 恐れていた影がこんなにも陰影をくっきりとさせて現われるなんて。
 本当に想像以上のことだ。
 これでようやく夢から醒めたのかもしれない。
 吉羅に夢を見ることを止めなければならない。
 夢なんて最初から見てはいけなかったのだ。
 香穂子はこころが以前よりもずっと傷が深くなるのを感じながら、傷だらけの笑顔を吉羅に向けた。
 そのまま横浜のマンションまで送って貰い、香穂子は吉羅に切ない笑みを向ける。
「…いってらっしゃい…」
 これが最後だと思いながら、香穂子は切ない気分で呟いた。
「…いってくる」
 吉羅の背中を見た瞬間に、涙がこぼれ落ちていく。
 こんなにも痛くて切ないのは、生まれて初めてだった。
 この背中を見るのも、これが最後だ。
 もう二度と見ることはないだろう。
 香穂子はカレンダーを見る。
 母子寮の入居時期は明日からだ。
 断らなくて良かったと、つくづく思う。
 これで何とか生きて行く術は確保出来たのだから、大丈夫だ。
 吉羅が行ってしまうと、暁愛は心配そうにこちらを見上げる。
「…ママ、だいじょぶ?」
 香穂子の異変に気付いたのか、暁愛は今にも泣きそうな顔をしている。
 それが辛い。
「…大丈夫だからね。心配しなくても。ね、あきちゃん、明日、お引っ越しするから…、ママに着いてきて貰っても構わないかな…?」
 引っ越し。
 きちんとした意味はまだ解らないだろうが、切ないことなのは理解したようだ。
「…お引っ越し…」
 暁愛が眉間に皺を寄せて俯くのを見ると、本当に胸が痛い。
 今にも泣きたくなってしまう。
「…解った…。しゅる」
 母親の想いを理解したのか、暁愛は小さく頷いた。

 息子と一緒にお風呂に入り、寝かせた後で、香穂子は後片付けをする。
 まだ完全には荷物を紐解いてはいなかったから、直ぐに終わった。
 不安が完璧に的中してしまった。
 踏み切られない自分のこころが、こうなることを予測していたのだろう。
 香穂子は支度を終えて息子を見つめる。
 あどけない寝顔だ。
 これで暫くすれば吉羅のことなど忘れてしまうだろう。
 それで良いのかもしれない。
 これからふたりだけで生きていく。
 もう誰もいらないのだ。
 暁愛以外は。
 誰も人生に立ち入らせたくないと、香穂子は強く思った。
 指環を外して、ジュエリーボックスの中に入れて、ダイニングテーブルに置く。
 もう二度と着けることはないだろう約束の指環だ。
 一瞬だけでも夢を見させてくれて有り難うと、香穂子はそっと呟いた。

 明日はやることが沢山あるから、眠れないだなんて言ってはいられない。
 眠ろうと努めているものの、精神的に重くてなかなか思い通りにはいかなかった。
 このまま朝まで過ごしてしまおう。
 そんなことを考えながら横になっていると、いつの間にかうとうととまどろんでいた。

 いつのまにかうとうととしていたらしい。
 香穂子は目を開けてハッとする。
 香穂子と暁愛を包み込むように、横に吉羅が眠っていたのだ。
 まるでふたりの様子を察したかのように、逃げないようにと監視をするかのように。
 しかも、外した筈の、吉羅が香穂子にプレゼントした指環が、左手薬指にしっかりとはめられていた。
 香穂子が驚いて起き上がろうとすると、吉羅は目覚めていたのか、手首を掴んできた。
「…暁彦さん…」
「母子寮には行かせない。君達ふたりを未来永劫離さない」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を抱き寄せた。
「…止めて…。他の女性を大切にするあなたとは、やっぱり一緒にはなれない…。私、誰かとあなたを共有するなんて…、考えられないの…」
 香穂子はまるで小さな子どものように、いやいやと首を横に振ると、吉羅から視線を外した。
「誰とも私を共有することはないんだ…。君は…」
「…だって…、あなたはあの美しい女性をいつも優先する…。あの時だってそうだった…。私よりもあの美しい女性を優先していた…。いつも二番手な感じがして、私は嫌だった…。泣きそうだった…」
 香穂子は洟を啜りながら言うと、吉羅から離れようとする。
 だが、吉羅は話してはくれない。
「…お願い…。もう、離して下さい…。あなたとはやっぱり一緒にいられないから…、暁愛と一緒にいなくなります」
 香穂子が涙を零すと、吉羅は冷たい笑みを浮かべている。
 泣き落としには動じないぐらいに思っているのだろう。
「…香穂子、私たちはしっかりと話し合わなければならないだろうね…。君の誤解を解くためにも、私は君にきちんと話をしなければならない…。お願いだ…。私の話を聞いてくれ…」
 手をギュッと握り締められて、吉羅は懇願をする。
 その想いが伝わってくる。
「…話を聞いた上で判断して欲しい。君が納得いかないのならば、君の想い通りにしてくれて構わない。…私はそれに従う」
 吉羅は苦しげに呟くと、香穂子を見つめてくる。
 かたくなになっていては幸せにはなれない。
 お互いにとことんまで話し合わなければならないと、香穂子も思った。
 以前のように、勝手に判断をしてはならない。
 香穂子は自分にそう言い聞かせると、吉羅にそっと頷いた。
「…ベビーシッターを一日雇っている。最高のナニーだ。だから君の一日を私にくれないか…?」
 吉羅は本当に腹を割って話そうとしてくれている。
 それは受け入れてあげなければならない。
 本当にこころから愛した男性だから。
「…解りました。お話を聞いた上で判断をさせて下さい」
「解った…」
 吉羅は頷くと躰を起こす。
「そんな気分では朝食を作るのは大変だろう? パンケーキの朝食をホテルのレストランに食べに行かないか?」
「解りました」
 香穂子が頷くと、吉羅は少しだけ笑った。
「…君にはきちんと話をしたいからね」
 吉羅は起き上がると、シャワーを浴びに行った。
 戻って来た。
 それが明るい事実に繋がるような気がする。
 香穂子は一縷の光を見出だしながらも、それに縋れない自分がいることを知っている。
 許せる。
 許せない。
 それは解らない。
 香穂子は息子の寝顔を見つめながら、この子にとっても自分にとっても、どうすれば良いのか。
 その選択に苦慮していた。


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