*追憶*

31


 穏やかな幸せに満たされて、香穂子は世界一幸せな女性は自分なのではないかと、思わずにはいられない。
 世界一幸せ。
 こんなに素敵な響きはない。
 吉羅がいて、息子がいて。
 かつて吉羅を愛し始めた時に夢見ていたことが、現実となったのだ。
 こんなにも嬉しいことはない。
 この週末も親子三人で郊外の自然が溢れた公園に行き、大いに楽しんだ。
 沢山の写真を撮り、沢山の想い出を作った。
 今までは、いつも暁愛とふたりだけの想い出だった。
 それに父親である吉羅が加わることによって、更に輝きを増した。
 写真は直ぐに現像に出し、アルバムに丁寧に貼り付ける。
 香穂子は、こうして親子の絆を深めていければ良いと、今は思う。
 吉羅に再会した頃は、息子が取られてしまうんじゃないかとばかり考えていたが、今はそう思わなくなった。
 吉羅とふたりで、息子をまっすぐ育てていけば良いと考えられるようになってきた。
 これも吉羅との仲が近付いた証拠でもあるのだろう。
 吉羅が愛しい。
 今まで以上に愛している。
 出会った時よりも、吉羅への愛情は深まっていることを感じていた。

 香穂子がアルバムに写真を張り終えると、吉羅がダイニングにやってきた。
「暁愛は寝たよ」
「有り難うございます。最近は暁彦さんに絵本を読んで貰うことが嬉しいみたいです。“ママよりちらしゃんが良い”って言われた時には、かなりショックでしたけれど。きっと暁彦さんが絵本を読むリズムが好きなんでしょうね」
 香穂子がくすりと笑うと、吉羅は向かい側の椅子に腰を下ろした。
「…香穂子、焦ってはいけないと思っているんだが、暁愛にそろそろ父親だと呼ばれたい。少しずつ馴れさせてはいけないかね?」
 吉羅は香穂子を真摯なまなざしで見つめてくる。
 解っている。
 吉羅が心底、暁愛の父親になりたがっていることは。
 香穂子もそろそろ良いタイミングかもしれないと、思い始めていた。
「…そうですね。あの子にそろそろあなたが父親だということを、教えていかなければならないと思っています。あの子はまだまだかなり小さいですから、父親というのがどのような存在かが解らないんです。だけど、あなたと一緒に暮らすようになってから、本能で気付いているようです」
 香穂子はこういう話を吉羅とする日が来るなんて、思ってもみなかった。
 話してみると、本当に穏やかで満ち足りた気分になった。
「…有り難う。本当に嬉しいよ」
 吉羅は深みのある声で、こころから喜んでくれると、香穂子の手を握り締めた。
「…明日から少しずつ、呼び名から変えさせるようにしますね。直ぐにお父さんだと言うようになりますよ」
「だったら嬉しいのだがね…」
 吉羅は幸せな表情で目を細めると、椅子から立ち上がり、香穂子の背後に回る。
「…愛している。君も息子も…」
 ふわりと包み込むように抱き締められて、幸せの余りに泣きそうになった。
「私もふたりを誰よりも愛しています…」
 吉羅は香穂子の唇にキスを贈った後、欲望と愛情が滲んだ瞳を向けてくる。
「…香穂子…。ベッドルームに行こうか」
「…はい…」
 吉羅に素直に抱き上げられると、香穂子は目を閉じる。
 一緒に暮らしていたかつての頃よりも、幸せであることを感じる。
 こんなにも幸せで堪らないことはない。
 吉羅に抱き締められながら、香穂子は幸せな時間を共有した。

 ふたりでしっかりと愛し合った後、吉羅に抱き寄せられて、幸せなひとときを紡ぐ。
「…香穂子、暁愛の件は有り難う、感謝している。私を父親として教えてくれるならば、そろそろ私たちもきちんとしなければならないと思うのだがね。香穂子、結婚して欲しい。君と暁愛を正式に家族として迎えたいんだ。構わないかね?」
 吉羅のプロポーズに涙が出そうになる。
 今度は本当にこころが籠ったプロポーズだから嬉しい。
「…君達を二度と離したくない…」
「…暁彦さん…」
「私は、君と息子と、これから生まれてくるだろう子どもたちと共に、幸せを築いていきたい。様々なことはあるだろうが、お互いの思いやりで乗り越えていけるだろうから」
「はい。そうですね。沢山の家族と一緒に頑張れば…」
「プロポーズを受けてくれるかな? 受けてくれなければ、いつまでもこうして抱き締めているがね」
 吉羅は香穂子を抱き締める腕に力を込めると、甘く微笑んでくる。
「…暁彦さん…。私…」
頷きたいのは山々だが、まだ何処か踏切ることが出来ない自分がいる。
それが切ない。
 一歩を踏み出すには、まだ考えが足りないような気がした。
「…香穂子…。まだ、考えたいのかね?」
 吉羅は心配そうにこちらを見つめてくる。
 まだ考えたい。
 それは事実だ。
 だが素直になれば答えが一つなのも解っていた。
 考えても同じことなのだろう。恐らくは。
「…香穂子…」
 吉羅は心配そうに不安そうに呟きながら、香穂子を見つめてくる。
 こころの不安や痛みが伝わってくるのを感じた。
「…暁彦さん…。私と暁愛はあなたを幸せにしますから、あなたも私たちを幸せにして下さい…」
 香穂子は吉羅にゆっくりと頷いた。
「有り難う、香穂子…!」
 吉羅の言葉に、香穂子は泣きそうになりながら頷く。
 これで良いのだ。
 不安は、吉羅が、家族が、拭い去ってくれるだろうから。
「…君達を幸せにする。私を幸せにしてくれ。私を幸せに出来るのは、君だけだから」
「暁彦さん…」
 香穂子は吉羅の胸に顔を埋めながら、そっと目を閉じる。
 不安はきっと消え去る。
 怯えはきっと忘れられる。
 香穂子はそう思っていた。

 翌朝、香穂子はいつものように朝食の支度をし、吉羅と暁愛を起こしにいく。
 幸せな時間が重ねられて、今まで以上の幸せを感じずにはいられない。
 三人で同じテーブルを囲み朝食を食べていると、吉羅が口を開いた。
「香穂子、今夜、三人でお祝いに行かないか?」
「嬉しいです。三人で家族になる日ですから、お祝いをしたいです」
「良かった。早く帰ってくるから、待っていてくれないかね」
「解りました。待ちます」
「有り難う」
 三人でお祝いをするなんて、こんなにも嬉しいことはない。
 これだけ嬉しいことが沢山あるのだから、きっと不安の影も何処かにいってしまうことだろう。
 何も切ない不安に追いかけられることはない。
 悪く想像しがちだが、大概は想像するような悪いことは起こらないのだから。

 食事を終えて、香穂子と暁愛は吉羅を見送りにいく。
「いってらっしゃい」
「ああ。いってくる」
 吉羅はにっこりと笑うと、仕事へと向かった。
 こうして吉羅を見送ることが出来るなんて、今まで想像も出来なかった。
 幸せな感覚に、香穂子は微笑んでいた。

 三人でお祝いをするとのことで、香穂子はいつもよりも綺麗になると頑張ってみた。
 吉羅には、綺麗だと思っていて欲しいと思うのは愛しているからに他ならない。
 香穂子が綺麗にして待っていると、吉羅が迎えに来てくれた。
「行こうか、香穂子」
「はい」
「あいっ!」
 元気よく返事をする暁愛にくすりと微笑みながら、ふたりは見つめ合う。
 こんなに満たされた瞬間はないと感じていた。

 海が見えるレストランで食事をしながらお祝いをする。
 デザートの時間になり、吉羅はジュエリーボックスを差し出してくれた。
「婚約指輪だ。左手を出して欲しい」
「…はい…」
 うっとりとした気分で左手薬指に指輪をはめてもらう。
 香穂子の薬指に指輪がはめられたタイミングで、けたたましい携帯電話の音がする。
 不吉な予感に、香穂子は願った。
 どうか出ないで欲しいと。


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