*追憶*

30


 もう吉羅とは離れられない。
 抱き締められながら、香穂子はつくづくそれを感じていた。
 何も言わなくても、こうして抱き合っているだけで、今は幸せでしょうがない。
 こんなにも幸福な瞬間は、暁愛を出産した時以来感じていないことだった。
「…次の子どもが欲しいね。暁愛にも兄弟が必要だ」
「…そうですね…」
 今は素直に吉羅の子どもが欲しいと言える。
「一人っ子よりは、沢山の兄弟がいるほうが良いからね。賑やかなのは嫌いじゃないから」
「私も賑やかなのは大好きです」
 ふたりで顔を見合わせると、ふと微笑んでしまう。
 こんなにも温かくて幸せな瞬間は他にないのではないかと思った。
「…朝までこうして君を抱き締めていたいが、構わないかね?」
「あきちゃんが目覚める直前に戻らなければ泣くかもしれません」
 香穂子もそうしたいのは山々なのだが、暁愛のことを考えると難しい。
「暁愛には、部屋でひとりで眠ることに馴れて貰わなければね」
 吉羅もしょうがないとばかりに苦笑いを浮かべている。
「そうですね…。まだ小さいから、ひとりは大変でしょうけれど。…だけど、私も明け方までは一緒にいたいです…」
「じゃあこうしていよう…。これからもずっとこうして一緒にいよう」
「…はい」
 吉羅の腕に抱き寄せられて、香穂子は夢見るようなひとときを過ごす。
 幸せな疲労に、香穂子はいつの間にか眠りに落ちていた。

 余りにも安心していたからか、香穂子はぐっすりと眠ってしまっていた。
 子どもが泣く声にハッとして目を覚ました。
 時間は朝の6時。
 休みだから慌てることはないが、息子の探す声に、香穂子は素早く衣服を着て部屋から出た。
「あきちゃんっ!」
 香穂子が名前を呼ぶと、暁愛は泣きやみこちらに振り返る。
「ママ!」
 香穂子の姿を見てホッとしたのか、暁愛はその胸に飛び込んで来た。
「ママ、ママっ!」
「ごめんね、あきちゃん…」
 香穂子は息子をギュッと抱き締めると、宥めるように背中を撫でた。
「ママ、おっぱい…」
「うん」
 香穂子は暁愛を抱き寄せると、授乳を始めた。
 まだまだ小さいのに、聞き分けよく我慢してくれていたから、その反動が出ているのだろう。
 香穂子より少し遅れて、吉羅もやって来た。
「落ち着いたかね?」
「少しだけ…。おっぱいはあきちゃんの精神安定剤みたいなものですから、恐らくは落ち着くと思います」
「有り難う」
 吉羅はふたりごと引き寄せるようにそっと肩を抱いてくれた。
 こうしていると本当の意味で家族なのだろうと思う。
 愛情でしっかりと結ばれているのが解った。
「ちらしゃん…」
 暁愛は吉羅の存在に気付いたのか、ゆっくりとおっぱいを外して微笑む。
「みんなでいっちょに」
「一緒に寝ようか。三人で」
「あい…」
 うとうととし始めた暁愛に、慈しみ溢れるまなざしを向けると、吉羅は香穂子に手を差し延べた。
「私が抱こう。私たちももう少し眠ったほうが良いだろうからね」
「そうですね」
 含みのあるまなざしを向けられて、香穂子ははにかみながら頷いた。
 吉羅は息子を抱き上げると、香穂子たちがいつも使っている寝室へと向かう。
 ここはダブルベッドだから三人で十分に眠ることが出来る。
「流石にあちらは拙いと思ってね。私たちが愛し合った痕跡が残っているからね」
「…そうですね」
 香穂子もか苦笑いを浮かべた。
 暁愛をベッドの中央に寝かせて、ふたりは川の字になる。
 息子を挟んで、ふたりは見つめあった。
「本当にこの子は可愛いね。世界一の息子だと思っているよ。こうして甘えてくれるだけで、一生分の親孝行をして貰ったような気分になるよ」
「はい」
「香穂子…」
 吉羅は優しく甘く響く声で名前を呼ぶと、香穂子を愛しげに見つめてくれる。
「この子を素直な子どもに育ててくれてどうも有り難う。君がきちんと教育をしてくれたから、あのように素晴らしい子どもに育ってくれたんだよ」
「嬉しいです…。そうおっしゃって貰って。だけど、本当にあきちゃんは育てやすい子です。生まれてからずっと親孝行なんですよ」
 香穂子は息子の寝顔に目を細めながら呟くと、吉羅も頷いた。
「これからは、君を抱いた後で、三人で川の字になるのが良いようだね」
「そうですね」
 香穂子は頷くと、吉羅にくすりと微笑んだ。
「親子水入らずで、ゆっくりとあと暫くは眠ろうか」
「そうですね」
 香穂子が頷くと、吉羅は眩しそうに頷き返してくれた。
 それが香穂子には嬉しくてしょうがなかった。

 三人でうつらうつらと気持ち良い空間を漂いながら、香穂子は目を醒めた。
 再び眠り始めてから二時間ほど経過したことを、ベッドサイドの時計が知らせてくれる。
 そろそろ起きてゆっくりと朝食の準備をしてやりたい。
 大切なふたりには美味しい食事を食べて貰いたいからだ。
 香穂子が身仕度を始めると、吉羅が僅かに躰を起こした。
「まだゆっくりとしていても良いんじゃないかね?」
「食事を作ろうかと思っているんですよ。出来たら起こしますから、後少しだけ眠っていて下さいね」
「だったら暁愛とふたりでゆっくりと眠っていることにしよう」
「はい」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅に引き寄せられて唇に甘いキスを受ける。
 こんなにも愛しい行為は他にないのではないかと思った。
「頼んだよ。支度が終わったら、呼びに来て欲しい」
「解りました」
 香穂子は吉羅に愛情を込めて微笑むと、ダイニングへと向かった。

 朝食を作り終えてふたりを呼びに行くと、仲良く眠っているのが見えた。
 とても愛らしくて、香穂子は思わずくすりと笑った。
 ふたりは本当によく似た親子だ。
 じっと見つめているのが幸せに思える。
 飽きずに見ていると、吉羅が香穂子の視線に気付いたようだった。
「どうしたのかね?」
 柔らかな笑顔に、香穂子は眩しい笑みを向ける。
「暁彦さんとあきちゃんは、やっぱり親子だと思っていたんです。本当によく似ています」
「私にはそれはとても嬉しい言葉だね。母親である君にそう言ってもらえるのは。とても嬉しく思うよ」
「私も嬉しいです。ふたりが本当に似ていることが確認出来て」
 幸福が表情に宿るように、香穂子はにっこりと微笑む。
 吉羅は香穂子の手をそっと取ると、自分へと引き寄せてきた。
 羽根のようなキスをされて、香穂子幸せがこころを覆い尽くしていくのを感じた。
 はにかんでいると、吉羅が嬉しそうに微笑んでくる。からかい半分、甘さが半分といった形だ。
「…暁彦さん…朝ご飯が出来ました」
「有り難う。暁愛と一緒に食べようかな」
 暁愛の睫毛が揺れて、起きる気配が感じられる。
「…ママ…?」
「あきちゃん、起きたのかな?」
 眠そうに目を開ける息子に、香穂子はにっこりと笑いかける。
「ママ、ごはん…」
「ごはんが出来ているよ。顔を洗って服に着替えたら、食べようか」
「…うん…」
 香穂子は息子を抱き上げてベッドから下ろすと、洗面所へと連れていった。
 先ずは顔を蒸しタオルで拭いてやり、髪をとかして綺麗にしてやる。
 歯磨きだけはご飯の後だ。
 息子をダイニングに連れていった後で、食事を始める。
 本物の家族が揃った朝食。
 なんて素敵な響きなのかと思う。
 吉羅と暁愛を見ているだけで、幸せな気分になる。
 この幸せがいつまでも続きますように。
 当たり前のことなのだと思わないように。
 香穂子はこころから思った。


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