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吉羅暁彦と出会ったのは、明るい陽射しが眼に麗しい季節。 敵として出会った。 なのに最初から憎めなかったのは、きっと孤独と寂しさを隠すために張られた尊大なオーラが脆いことに気付いたからかもしれない。 香穂子は背筋を伸ばして、CEO室の扉前にいた。 小馬鹿にされないように髪を美しく結い上げ、スーツはまるで戦闘服のようなものを選んだ。 ヒールは履き馴れない、7センチのもの。 経済界の寵児だと言われ、その冷徹な手段で恐れられている吉羅暁彦と対峙をするのだから、これぐらいはやらなければならない。 先ずスタイルで負けてはならない。 瞳は勝ち気に輝かせて、真っ直ぐと前を見る。 ただそれだけだ。 負けてしまえば、一家が路頭に迷うのだから。父親が犯罪者になってしまうのだから。 だから負けられない。 香穂子は腹に力を込めると、吉羅と対峙をするためにノックをした。 「吉羅さん、日野香穂子と申します」 「入りたまえ」 よく響く声が聞こえて、香穂子はグッと顎を引く。 さあ戦闘開始だ。 頭のなかで高らかにラッパが鳴り響く。 香穂子は「失礼致します」と声を掛けた後、吉羅の待つ部屋へと向かった。 部屋に入った瞬間、今まで武装をしていた気持ちが、一気にトーンダウンしてしまう。 立派過ぎる机の前に立っていた吉羅暁彦は、雑誌や新聞で見掛ける時よりも、魅力的で、抗えない雰囲気を滲ませていた。 長めの前髪が影を作る瞳は、優美なほどに整っているというのに獣のような鋭さを持っている。 長身で引き締まった肉体はとてもしなやかで、イタリアンテーラードの高級スーツが隙なく似合っていた。 これ程整っている男を、他で見たことはない。 こんなにも支配者的な雰囲気を持った男も。 何もかも、香穂子が今いる世界にはいない、超越した世界にいる男に見えた。 素晴らし過ぎて、息が止まってしまいそうだ。 同時に恐ろし過ぎる。 こんなにも力強い雰囲気を持った男と対峙することなど、出来る筈がない。 脚が小刻みに震えるのを何とか押さえ付けて、香穂子は吉羅にに会釈をした。 「日野香穂子と申します」 「吉羅暁彦だ。君のステージを見たことがあるから、ヴァイオリニストとしての力量は知っている。まだまだといったところかね」 「…そうですね…。プロと認められるようになったのはつい最近ですから、まだまだです…」 手厳しいが事実を述べている吉羅の言葉に、香穂子は唇を噛み締める。 「…ヴァイオリニストの日野香穂子さんが、横浜の輸入雑貨商の日野商会のお嬢さんだとは知らなかったよ」 吉羅は冷たい感情のない声で言うと、冷酷なまなざしを向けて来る。 「君のお父さんは、私のグループの傘下に入りながら、自らの独断で行なったサブプライムローンの焦げ付きを、会社の収益を使って無断で穴埋めをしようとした。そもそもあんなにも危ないサブプライムローン投資を、自らの私腹を肥やす為に行なっていたんだから、始末に負えない。これが横領でなくてなんだと言うのだね…?」 吉羅の言うことは的確で正論だ。そして冷たい。 エコノミカルマシーンではないかと思う程に冷静沈着で、香穂子にはとてもではないが着いてはいけない雰囲気だ。 人間的な感情など、少しも持ち合わせてはいないのではないかと思ってしまう。 「…確かに父は…自分の生活をより豊かにするために、サブプライムローンの投資を行なっていました…。…私もその恩恵を少しは受けていると思っています。だけど…」 香穂子は言い訳は嫌いだったが、ここは家族のために踏ん張らなければならないと、しっかりと歯を食いしばる。 「…きちんと利益が出たら、会社に還元するつもりだったんです…! 決して横領だとか、そんなことを考えたわけではありません…!」 香穂子は拳を強く作りながら、吉羅にキッパリと言い切る。 本当は、吉羅暁彦が恐ろしい。 だが、引くことなんて出来ない。 香穂子は吉羅を挑発するように真っ直ぐ見つめた。 「…ほう…」 吉羅は、まるで小娘の戯言を聞いているとばかりに、余裕たっぷりの表情で、眉を上げてこちらを見ている。 皮肉げな表情ですらも、憎らしい程に魅力的だった。 「…だから、横領罪で父を告発されないで下さい…! お願いします」 こうして懇願しても伝わらないだろうと思う程に、相手の氷の壁は大きい。 少しばかりの熱では溶けやしない強固なものだ。 だがぶつかるしかない。 何もしなかったよりも、こうしてチャレンジしたほうが後悔が残らずに納得出来るから。 香穂子が媚びないまなざしで吉羅を見つめると、フッと冷酷な瞳が面白そうに輝いた。 「…君は良い瞳をしている…」 吉羅は冷たく抑揚のない声で呟くと、香穂子を真っ直ぐ見つめた。 「…君が私に協力をしてくれるというのであれば、お父さんの告発を取り下げることを検討しよう…」 吉羅は冷たい眼で、香穂子を探るように見ている。 だが悪くない。 何を協力するのかは解らないが、それで家族の窮地を救えるならば受けても構わない。 「…何ですか…? 私の出来ることであるならば、協力は惜しみません…」 「君しか出来ない…ね。私の周りでは。だからこれは絶対条件だ」 吉羅の声が今までで一番残酷に響く。 「…君には私の婚約者のふりをして欲しい」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を射るように見つめた。 婚約者! こんなことは晴天の霹靂だ。 まさかふりとはいえ、吉羅暁彦がこのような申し出をするとは思えなかった。 「…婚約者…ですか…?」 「あくまで、ふり、で構わないんだ。色々と煩わしいことが多くてね、君なら適任だと思ったのだがね」 吉羅はあくまで引く気など全くないようだ。 ふり。 それだけで父親や家族を救えるのであれば、喜んで受けよう。 恐らくはどう考えてもそれ以外の選択肢は残されてはいない。 香穂子は熟考する暇など与えられていないことは解っていたから、ただ静かに吉羅を見つめた。 「解りました、婚約者のふりをします」 吉羅を見つめると、僅かに唇を歪めるように笑った。 「良かろう。お父さんへの告訴は取り下げよう」 「有り難うございます」 それしかない。今は。 この尊大で冷徹な雰囲気は気に入らないが、致し方あるまい。 「日野君…いや、香穂子…、これが私の連絡先だ。一応、渡しておく。連絡がある時は、私から行なう」 「解りました。私の連絡先を教えれば良いんですね…」 「ああ」 香穂子はいつも持ち歩いているカードに、走書きで携帯番号とメールアドレスを記す。 「どうぞ」 「有り難う。君に婚約者のふりをして貰いたい時には、きちんと連絡をする」 「はい。私もヴァイオリニストの端くれですから、スケジュールによっては行けない場合もありますから…」 「事前に君のスケジュールは提出して貰う。ふりは、主に財界のパーティといった面倒臭い催しの時だけだ」 「解りました」 スケジュールをコントロールされるのは、正直言ってかなり辛い。 しかも相手がこんなにも尊大な相手だと、正直言ってかなり嫌だ。 だが仕方がないのだ。 「早速だが…、今日は予定はあるのかね?」 「いいえ、今日はありません…」 「だったら…」 吉羅は冷たく言うと、直ぐに内線電話を取る。 吉羅が電話を切ると直ぐに、秘書らしき女性がやってきた。 「彼女を磨いてきてくれ」 「かしこまりました」 女性はうやうやしく言うと、香穂子に向き直る。 「行きましょうか」 いきなり手を取られて、香穂子はうろたえる。 「ど、何処へ!?」 「今日、早速パーティがあるものだからね。準備をお願いする」 「え、ちょっ!」 香穂子がうろたえるまま、秘書は連れて行ってしまう。 そのまま車に乗せられてしまった。 |