*嘘恋*


 社用のハイブリッドカーに乗せられてたどり着いたのは、銀座のど真ん中だった。
 有名なヘアサロンで、メイクと髪を整えられ、そのまま高級ブティックでドレスを選ばれる。
 戸惑っている間に、香穂子は品のある女性に仕立てあげられてしまった。
「まあ、ここまで磨けば、社長もお喜びになるでしょう」
「…あ、あの…。そこまで磨いてもしょうがないかと。私は私でしかいられませんから」
 こうしてドレスアップをしても、日野香穂子は日野香穂子なのだ。
 それ以上でも以下でもない。
 香穂子が乗せられたハイブリッドカーが会社ビルの駐車場に到着をすると、吉羅が車に向かって歩いてくるのが見えた。
 全く隙ない完璧さだ。
 恐らくは多くの女性にとっては夢のような男なのだろう。
 だが香穂子にとってはそうは思えない。
 尊大で自己主張の強そうな男は願い下げた。 
 パーティに出ても遜色ないスーツを着こなした吉羅が、助手席のドアを開ける。
「香穂子、車を乗り換えて貰う。降りたまえ」
「はい」
 香穂子が恐る恐る車から降り立つと、吉羅は確認したように先を歩き出す。
 吉羅が立ち止まったのは、最も本人にあっているフェラーリの前だった。
「パーティまで時間がないからね。急ごう」
「はい」
 助手席のドアを開き、吉羅がエスコートをしてくれる。
「どうぞお嬢さん」
「有り難うございます」
 吉羅のような男にレディファーストでエスコートをされると、ときめかないはずはない。
 だが、ここはときめく素振りなど見せてはならない。
 そんなことを見せてしまえば、弱みを握られてしまうだけだからだ。
 香穂子は緊張のなか、ただ背筋を伸ばして、真っ直ぐと前を見ていた。
 吉羅の雰囲気に飲み込まれないためでもある。
 吉羅は無駄な話など一切なく、クールなハンドル捌きで都内を駆け抜ける。
 瞬く間に、外資系の有名ホテル前にたどり着いた。
 車が駐車場に止まると、吉羅は冷たい瞳で香穂子を見つめる。
「…ドレスアップをして悪くはないが…、それでは婚約者のいる華やいだ雰囲気からはほど遠い…」
 吉羅は満足がいかないとはがりに、軽く溜め息を零した。
 ちゃんと満足に男性とは付き合ったことがないので、欲求通りに行く筈もない。
 恋する色気なんて、香穂子には全く無縁といっても良かった。
「これが私なんです。それに今までの私の生活では、色気なんて必要としませんでしたから」
「…では、今から身に着けると良い。私の婚約者のふりをして貰う以上は、色気ぐらいは滲ませて貰わなければ困るがね」
 吉羅はさらりと言いながらも、香穂子には全く期待をしてはいないとばかりの表情をしていた。
「色気なんて、生きて行くのに必要なんて殆どないわ」
「今の君には必要だと思うがね」
 吉羅はキッパリと言い切ると、いきなり香穂子を抱き寄せてきた。
 ふわりと男らしいコロンの香りがする。
 香穂子は落ち着かなくなり、吉羅から離れようとした。
「…あ、あのっ!」
 香穂子が抵抗をしようとすると、吉羅は項に唇を強く押し当ててきた。
 背中がゾクリとするほどに甘い。
「…あっ…!」
 甘い声を零した瞬間、吉羅は首筋から唇を離した。
 息が乱れて、鼓動が激しく乱れる。
 吉羅を恨めしい気分で見上げる。
「…吉羅さん…」
「…少しは色っぽくなったね…。悪くない…」
 吉羅の口角が僅かに上がり、香穂子は恥ずかしくて目を伏せた。
「さあ行くか」
 吉羅はシートベルトを外すと、先に車から降りて香穂子をエスコートするために助手席のドアを開けてくれる。
 こんなに様になっているのだから、きっと女性をエスコートすることに馴れきっているのだろう。
 そう思うと、ほんの少しだけ悔しかった。
 香穂子は緊張しながら脚を外に出すと、車から出る。
 吉羅はそれを確認すると、香穂子の前をきびきびと歩いていくのが見えた。
 その足取りに着いて行くのが、今の香穂子にはやっとのことだった。
 パーティ会場に着くと、その圧倒的なセレブリティな雰囲気に。圧倒される。
「…吉羅さん、私…」
 思わず気後れしてしまい、香穂子は不安げに吉羅を見上げる。
「…大丈夫だ。君は私のそばにいれば良いんだ…。それとここからは“吉羅さん”は禁止だ。それを心積もりしておくように」
「どう呼んだら良いんですか…?」
「暁彦…。暁彦と呼んでくれたら良い。君には今から婚約者のふりをして貰うのだからね」
「…はい」
 香穂子はかりそめの婚約者役に、胸がチクチクと痛むのを感じる。
 吉羅はそれを感じているのか、いないのか、クールな表情のままだ。
「さてと、婚約者のふりをして貰う以上は、それ相応な対応をして貰わなければならないからね」
「はい」
 それ相応な対応というのは、一体どのようなものなのだろうか。
 今まではヴァイオリン一筋で、男性経験はおろか付き合った経験のない香穂子は、どうして良いか解らない。
 吉羅が受付を終えるまで、ずっとそのことばかりを考えていた。
「…さあ終わった。行こうか」
「はい」
 香穂子は何も解らなくて、吉羅と手を繋げば良いと思い、彼の手を取ろうとした。
 だが、指先が触れたところで、撥ね付けられてしまった。
「…こういう公式な場所では手は繋がないんだ。腕を組みなさい。優雅に。君は本当に何も知らないんだね」
 吉羅は冷たく言い放つと、香穂子に腕を取るように促した。
 悔しい。
 そして泣きたいぐらいに切ない。
 吉羅と太刀打ちなんて出来ないぐらいに子どもであることを思い知らされるような気がして。
「…吉羅さん…」
「暁彦だ」
 まるで子どもに釘をさすように言われてしまい、香穂子は惨めな気持ちになってしまう。
「暁彦…さん」
「余り喋るな。君は挨拶だけをしていれば良いんだ」
「…はい。解りました」
 こんなに冷たく言い放たれると、本当に凹んでしまい、このまま逃げ出したくなってしまう。
 だが、それは許されない。
 家族を救うためには致し方がないのだ。
 香穂子の家族を幸せに救うことが出来るのは、吉羅暁彦以外にはいないのだから。
 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅に静かに寄り添う。
 会場に入ると、さり気なく腕を外そうとしが、吉羅がそれを許さなかった。
 完全に捕らえられてしまった。
 他のカップルは誰もが腕を外しているというのに、吉羅は外さない。
 香穂子は甘酸っぱい拷問だと思いながら、ひたすら笑顔で挨拶をし続けた。

 挨拶を一通り終えると、吉羅と香穂子のことを噂する女性たちの噂話が聞こえてくる。
「吉羅様がまさか電撃的に婚約者されるなんて、思ってもみなかったですわ」
「しかも、新進のヴァイオリニストだそうよ。もう少し落ち着いた方を選択されると思っていたのにね…」
「そうですわね。彼女は吉羅様にはかなり若過ぎるわね。いつもパートナーのように連れて来られた方と結婚なさるとばかり思っていたわ」
「本当に…」
噂話がいちいちこころに痛い。
 こんなことを気にしてはいられないのだが、やはり気になってしまう。
 偽者の婚約者なのだから、いちいち目くじらを立てるわけにはいかないのだが。
 パーティを何とかやり過ごし、吉羅の車に乗り込む頃にはへとへとに疲れ果てていた。
 しかも吉羅の機嫌はすこぶる悪かった。
「…あの、今日の私は拙かったでしょうか…?」
 香穂子が心許無い声で言うと、吉羅はいきなり唇を重ねてきた。



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