*嘘恋*


 荒々しく、乱暴だと思わずにはいられない程に、強く唇を重ねられる。
 吉羅の激しさに香穂子は飲み込まれていく。
 キスも未だな初で心許無い“女の子”であることを知られてしまうのが、恥ずかしくてしょうがない。
 吉羅は主導権を握ると、香穂子の口腔内を荒々しく凌辱していった。
 それはまるで香穂子が自分のものであることを知らしめるかのようだ。
 息苦しくて堪らないぐらいに唇を重ねられると、香穂子は頭がおかしくなってしまう。
 涙がまなじりから滲んでしまうほどに感じていた。
 躰が熱くて、何だか心地が好い。同時にやるせないこころの痛みが襲ってきた。
 キスだけで墜落してしまうのではないかと思ったところで、唇が離れていく。
 だが、香穂子の口角を噛む攻撃は、忘れてはいなかった。
「…痛いっ…!」
 思わず声を上げると、吉羅は薄く微笑む。だがその瞳は何処も笑ってはいなかった。
「…君は…危険な女だね…。余り男達を誘惑するような瞳で見てはならない。いいね」
「そんな、誘惑だなんてする気なんて更々ありません。あなたじゃないんですから…」
 吉羅の辛辣な言葉を香穂子は苦々しい気持ちで言い返す。
「…私はそんな気持ちは少しもありません」
「…そうかな…?」
 吉羅は眉を上げると、香穂子の項に指を伸ばして、アップしていた髪をほどく。
「…やっ…!」
 香穂子の艶やかに光る赤毛がパラリと胸元に落ちる。そのまま顎を持ち上げられて、瞳を覗かれる。
「…今の君はどうしようもない程に女だ…。この潤んだ瞳や艶やかな唇が、男達を誘うんだよ…」
 吉羅の氷のような瞳で見つめられて、香穂子は息を乱す。
 見つめられるだけで、胸の奥が苦しくなる。
 なんて男なのだろうと思う。
 香穂子が僅かに唇を震わせると、吉羅は軽蔑するかのような冷たい瞳を向けてきた。
「…君は余りにも無防備だ…。そして罪深い…。私の婚約者のふりをして貰う以上は、無防備さや小悪魔さは封印して貰わなければならないからね」
 吉羅はフッと冷たく微笑むと、香穂子から指先を離した。
「家まで送る。君の洋服は後部座席に置いてあるから、持って帰りなさい」
「はい」
 吉羅は香穂子に手早くシートベルトをした後、自分もシートベルトをする。
 吉羅は素早くハンドルを握り締めると、香穂子に声を掛ける。
「家は何処かね?」
「石川町です」
「解った。近くまで来たらナビをしてくれ」
「はい」
 吉羅はそこからは何も話さず、ただ運転に集中しているようだった。
 香穂子も甘い緊張で何も言えなかったからちょうど良かった。
 静かに走る車から、夜景を見つめる。
 美しく切ない風景だ。
 香穂子はちらりと何度か横目で吉羅を見つめる。
 運転している姿の横顔が、なんと美しいものなのだろうか。
 思わずうっとりと見惚れてしまう。
「香穂子、石川町だ。ここからはナビをしてくれたまえ」
「はい」
 香穂子は馴染み深い風景を見ながら、吉羅を案内する。
「そこを右に回って頂いて、左手がうちです」
「ああ」
 吉羅はぴたりと見事に駐車し、助手席のドアを開けてくれる。同時に着替えも渡してくれた。
「有り難うございます」
「香穂子、来週はインターコンチネンタルで、海外の財界人とのパーティがある。ヴァイオリンを持って来てくれ。君に一曲演奏をして貰いたいんでね」
「解りました」
「詳細は君がマネージメントを受けている事務所にファックスを送っておく」
「解りました」
 香穂子はうやうやしく礼を言うと、車から降り立った。
 吉羅は何事もなかったかのように、車を出して素早く走り出していく。
 香穂子はそれを見送りながら、何処か甘くて痛い想いを抱いていた。

 吉羅からは翌日にファックスが届き、事務所から内容が伝えられる。
 きちんとヴァイオリニストとしての仕事として手配してくれたのが、とても嬉しかった。
 今回はラフなスタイルで来るようにと書かれ、同時にドレスを用意すると書かれていた。
 ドレスならば、演奏会に使うものがあるから、それを使うつもりだ。
 綺麗で大人のスタイルにして貰えるのは嬉しいが、それよりも自分らしいスタイルをしたかった。
 香穂子は、演奏用のドレスは自分で用意をするからと断りの電話を掛けたが、吉羅は出ることがなかった。
 仕方がないので吉羅にはメールでその旨を伝えた。
 暫くして返ってきた答えは、「こちらで用意をするものを着ること」という一言が素っ気無くある。
 逆らったとしても思い通りにはいかないことは解っていたから、香穂子は黙って従うことにした。

 パーティの演奏をする当日、香穂子は指定されたホテルのなかにあるビューティサロンに向かう。
 すると直ぐに出迎えて貰えた。
「吉羅様に言われて、用意をしておきました」
「有り難う…」
 肌を綺麗に磨きかける為にエステを受け、ヘアアレンジとメイクをして貰えた。
 前回を上回るメイクに、香穂子は驚愕するばかりだ。
 髪を妖艶にアップしてくれる。
 それに相応しいが、何処か清楚なところも持ち合わせているようなドレスが用意され、香穂子はそれに袖を通すことにした。
 ドレスを着替え終えて、姿見で全身を確認する。
 これからヴァイオリンを演奏するのに、まるでデートに行くかのようだ。こんなに綺麗になれるんだと思わずにはいられない。
 香穂子が支度を終えたところで、吉羅がやってきた。
「準備は出来たかね…?」
「ようやく出来ました」
「…まあ悪くないだろう。行こう」
「はい」
 吉羅はさり気なくエスコートをしてくれながらサロンを出る。
「君が演奏するのは2曲だ。誰もがクラシックには耳が肥えているから、しっかりと演奏して欲しい」
「はい。解りました」
 香穂子は緊張の余りに背筋を伸ばすと、会場へと向かった。
 吉羅と一緒にいるだけで、香穂子はいやがおうなしに注目を受ける。
 誰もが吉羅の素晴らしさにうっとりとしていた。
 だが、香穂子には厳しい視線が送られるのは、女性特有の厳しさがある。
「良い演奏を楽しみにしている」
「有り難うございます」
 吉羅に見送られて、香穂子はステージに立つ。
 こうしてヴァイオリンを弾ける機会を提供してくれたのには、感謝している。
 ヴァイオリニストとしての自分を評価してくれていると、感じられるから。
 香穂子はパーティの隅に用意されたコーナーで、ヴァイオリンを奏で始めた。
 ここにいる総ての人々のために、温かな音を届けたい。
 香穂子はそれだけを強く思い、ヴァイオリンを奏でる。
 ヴァイオリンを奏で終わり、頭を下げると、誰もがいつの間にかこちらを見て拍手をしてくれていた。
 嬉しくてたまらなくて、香穂子は笑顔を満面に浮かべる。
 こうしてヴァイオリンを評価してくれるのが嬉しい。
 いつの時代も、女性ヴァイオリニストというのは、容赦を先行して評価される風潮が、日本にはまだまだあるのだから。
 香穂子がヴァイオリンを片手に演奏スペースから出ると、若手の財界人が声を掛けてきた。
「あなたの演奏は素晴らしかった。どうですか? 私がパトロンとしてあなたを援助するというのは?」
 いきなりの申し出に香穂子が戸惑っていると、誰かに威嚇するように腰を抱かれた。
 ゾクリとして見上げれば、そこには怒った表情の吉羅暁彦がいた。



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