*嘘恋*


 今までで一番怖い顔をしているような気がする。
 香穂子は背中が凍り付くのを感じながら、そろりと吉羅を見る。
「彼女は私の婚約者だ。パトロンなど必要はない。失礼」
 吉羅は低い声で呟くと、威嚇するような一瞥を男に投げ付けた。
 そのまま香穂子の腰を抱いて、吉羅は強引に歩いていく。
「あれ程言っておいただろう。無防備になるなと」
「…無防備になんかなっていません。ただ、私の演奏を気に入って下さったんですよ?」
 香穂子は、男に対する吉羅の失礼な態度に憤慨をしながら、軽く睨み付けた。
「…君は男というものが、無防備で無邪気な女性に対して、いかに獣になるかを解ってはいない。確かに君のヴァイオリンは魅力的だが…、ヤツはそれ以上に君自身を手に入れたいと、躍起になっているんだよ。紳士の仮面を被ってね」
 吉羅の冷たく辛辣な言葉に、香穂子は思わずキツい視線を送った。
「君は今、ふりをして貰っているとはいえ、私の婚約者なんだからね。私以外の男には鉄壁のガードをして貰いたい」
「吉羅さんにはガードをしなくても構わないんですか?」
 香穂子が拗ねるように言うと、吉羅は感情がないまなざしを香穂子に送った。
「私は構わないんだ。事情が解っているからね」
 淡々と言うと、吉羅は更に躰を引き寄せてきた。
 官能的なスパイシーなコロンの香りがする。
 香穂子は息が浅くなっていくのを感じながら、吉羅を見ないように僅かに俯いた。
「これから財界人に君を紹介する。これで私に縁談を持って来るような馬鹿な者はいなくなるだろう。私としても煩わすことがなくなるから楽だ」
 吉羅は香穂子を伴い、財界人たちに紹介をする。
 まなざしも声も淡々としていて愛情のかけらすらも感じられない。
 ここにいる誰もが、愛し合っているふたりとは考えないだろう。
 一通り挨拶を終えると、香穂子に厳しい視線が一段と注がれる。
 そこにいる良家の令嬢や、成功したマチュアなビジネスウーマンたちばかりだ。
 彼女たちは吉羅を狙っていたのだろうというのは、香穂子から見ても明確だった。
 視線だけの攻撃なのにかなり痛い。
 こちらはただ、吉羅の婚約者のふりをしているだけだというのに。
 なのにかなりの攻撃だ。
「香穂子、あちらのご夫婦にも挨拶を。私も随分とお世話になっているから、失礼のないように」
「解りました」
 吉羅の瞳を見ると、ほんのりと柔らかくなったような気がした。
 今までにない優しい瞳だ。
 ゆっくりとふたりで歩くと、品の良い夫婦が笑顔で近付いてきた。
「暁彦くん! まあ、素敵で可愛らしいお嬢さんを連れてきたのね!」
 妻は吉羅を息子のように見つめて、笑顔をくれた。
「…お久し振りです。私の婚約者の日野香穂子です」
「初めまして、日野香穂子と申します。宜しくお願いします」
 感じの良い夫婦だったからか、香穂子は緊張のなかにも素直な笑顔を浮かべることが出来た。
「まあ、素敵なお嬢さんですこと。暁彦くんがあなたのようなお嬢さんを選んで安心しましたよ。暁彦くんを狙うメギツネが多いですからひやひやしていましたが、あなたで良かったわ。ヴァイオリンの演奏も良かったし…」
 女性は夫に同意を求めるように見上げると、優しくも何処か切れ者の雰囲気を漂わせた夫は頷いていた。
「ヴァイオリンの演奏はとても素晴らしかったですよ日野さん。良いものを聴かせて頂きました」
 男の言葉に、香穂子は思わず笑顔になる。
「こちらこそ! 有り難うございます! そうおっしゃって下さって嬉しいです」
 香穂子は素直に賛辞を受け入れられた。
 香穂子が笑顔を向けると、夫婦揃って笑顔を返してくれる。それが香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
「本当に良いお嬢さんを選んだわね。嬉しいですよ」
「有り難うございます。私もそう思っています」
 吉羅は頷くと、誰にも見せたことはないような優しい笑顔を向けた。
「ではゆっくりと寛いで下さいね」
 夫妻が他の出席者に挨拶に向かうのを見送りながら、香穂子はなんて素敵な夫婦なのだろうかと思う。
 香穂子の理想である、“共に白髪が生えるまで”ずっと一緒に愛し合えるふたりだと思う。
 憧れだ。
「とても素敵なご夫婦ですね。憬れてしまいます」
「そうだね。素晴らしい夫妻だ。私がまだ駆け出しの経済人の頃から、温かく見守って下さっている。私の経済界での知人のなかでは、最も素晴らしい方々だよ」
 語る吉羅の声が優しいのが、香穂子には嬉しくてしょうがなかった。
「いつかああいう穏やかなパートナーに恵まれたら嬉しいです」
 香穂子は、相手が現実主義者な吉羅であることを忘れて、夢見るようにうっとりと呟いた。
「…そうだね…」
 吉羅の声が何処か優しくて、香穂子は胸をときめかせる。
 こんなにも甘くてふわふわとした綿菓子のような気分になったのは初めてかもしれない。
 吉羅をほんのりと幸せな気分で見つめていると、ふと冷たい瞳に変わった。
「今夜は私のそばにいなさい。その方が君のためだ」
 吉羅の声は、また氷のように冷たくなる。香穂子は致し方がないとは思いながらも、何処か切なさを感じた。
「はい。解りました」
 吉羅に腰を抱かれたままで、ただお飾りのように微笑む。
 何だか空しい気分になった。
 ふたりで共にいると、先程の女性が顔色を悪くして、ソファに腰掛けている姿が見えた。
 かなり辛そうで、寄り添う夫も苦しそうだ。
 香穂子は泣きそうになるほどの切なさを感じて、吉羅をすり抜けて直ぐにふたりに駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「…あ…、先程のお嬢さん…。大丈夫ですよ…。夫がそばにいてくれるから、平気なんですよ…」
 苦しそうなのに笑って見せる女性に、香穂子は切ないほどに甘くて感動的な感情を抱く。
「暁彦くんは、本当に優しい良い女性を選んだのね…。安心したわ…。少し休んだら、大丈夫だから、あなたはパーティを楽しみなさい。今度、暁彦くんと一緒にうちにいらっしゃい。あなたなら歓迎するわ」
「有り難うございます」
 吉羅が遅れてやってきて、香穂子の肩を抱く。
「そろそろ私たちは帰ります。暁彦くん、お先に失礼するよ」
 夫は紳士的な柔らかな声で言うと、妻を支えて歩いていく。
 その姿を見つめながら、香穂子は涙を滲ませた。
「さて、もう少しだけパーティに居なければならないからね。協力してくれ」
「解りました」
 あと少しだ。
 香穂子は軽く頷くと、吉羅を見つめた。
 吉羅は流石に財界の風雲児と呼ばれているだけあり、様々な人物が声を掛けてくる。
 そのなかでも、テレビで見たことがある財界人を見つけた時には、香穂子も流石に息を呑んだ。
「香穂子、少しだけ待っていてくれないか。直ぐに用を済ませてくる」
 吉羅は財界の有名人ばかりの輪に入っていき、香穂子はひとりになってしまった。
 途端に、冷たい視線を感じずにはいられなくなる。
 香穂子はなるべく視線の攻撃から離れたくて、会場の隅にひとりで佇んでいた。
 美しい女性が赤ワインの入ったグラスを片手に、こちらにやってくるのが見える。
 女性は香穂子にいきなりぶつかってきた。
「きゃあ!」
 赤いワインが胸元に派手に掛けられて、真っ赤な染みを作る。
 折角用意したドレスだというのに。
 香穂子は悔しくて涙ぐみながら、キツいまなざしを女に向けた。
 女は悪いとは思っていないらしく軽々しく「あら、失礼」と呟くと、香穂子から堂々と遠ざかる。
「香穂子に謝って貰えませんか?」
 厳しい声が聞こえて顔を上げると、そこには吉羅がいた。



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