*嘘恋*


 吉羅の整った顔に冷たさが滲んで、とても恐ろしい。
 香穂子はその表情の本当の意味での恐ろしさを、ようやく知った。
 香穂子には謝らなかったのに、女は息を呑んだ後で、吉羅に謝罪のまなざしを送る。
「本当に申し訳なかったですわ。あのようにぶつかってしまった上に、ドレスまで汚してしまって」
「私ではなく、香穂子に向かって謝って下さい。…まあ、そんなことで私が怒ってもしょうがない…か…」
 吉羅はひとりごちるように言うと、香穂子の腕を取った。
「…香穂子、行くぞ。君の無防備さが原因だ」
 吉羅は、香穂子の責任だとばかりにキッパリと言い放つと、そのまま会場を出る。
 明らかにあちらが悪いということを見ていたにも関わらず、吉羅は香穂子が悪いと明言したのだ。
 冷酷な余りに。
 香穂子は不快な思いが込み上げてきて、このまま吉羅の手を振り切りたかった。
 だが、吉羅の大きな手は、香穂子を力強く捕らえて離さない。
「…離して下さい。タクシーを拾ってでも帰ります」
「そんな姿で君を帰すわけにはいかないだろう。来るんだ」
 吉羅は容赦なく言うと、ホテルのフロントへと向かう。
「吉羅ですが、どんな部屋でも構わない。空いていませんか?」
「ジュニアスィートならばご用意が出来ますが…」
「ではそれでお願いします」
「かしこまりました」
 フロントの女性は直ぐに手続きをしてくれ、カードキーを出してくれる。
「有り難う」
 吉羅はカードキーを受け取ると、香穂子の手を引いて、ホテルにある高級ブティックに入る。
 そこでスタッフに指示をして、女性用の服のセットを用意させた。
 それを受け取ると、今度はホテルの部屋へと向かう。
 吉羅の無駄のない行動に、香穂子は文句を言う暇などあるはずがなかった。
 ホテルの部屋に入ると、吉羅は直ぐにバスルームの準備をし始める。
 香穂子は緊張と不安でドキドキしてしまい、殆ど何もすることが出来なかった。
「直ぐに風呂に入って、服を着替えるんだ。良いね」
「…はい…」
 吉羅は、まるで泥遊びをした後の子どもを叱るような口調で言う。
 いくら婚約者のふりをしているからといっても、吉羅にとっては香穂子はまだまだ子どもなのだ。
 香穂子は女として扱って貰えないことがこんなにも辛いだなんて思ってもみなかった。
「君が服を着替えたら直ぐにここを出るから」
「…はい」
 ワインで汚れた服を着替えるためだけに、ジュニアスィートを取ってくれたことには感謝する。
 なのにどうしてこんなにも胸が痛いのだろうか。
 切なくてしょうがないのだろうか。
「ではバスルームをお借りします」
「ああ」
 吉羅は、さして興味がないように言うと、香穂子から背中を向ける。
 恐らくは香穂子を婚約者の偽者として選んだことを、後悔しているに違いない。
 それが泣きたいぐらいに切ない。
 だったらどうなら嬉しいのだろうか。
 巷に溢れ返っているロマンス小説のように、吉羅が官能的に誘ってきたら嬉しいのだろうか。
 そこまで考えたところで、背中が甘く震えるのを感じた。
 何だか躰の奥底から込み上げてくるものがある。香穂子は冷静にならなければならないと、軽く深呼吸をした。
 早くバスルームに入って、この忌々しいドレスを着替えてしまおう。
 化粧も落として、子どものように見られてしまえば良い。
 香穂子はパウダールームに着替えを持って入ると、手早くドレスを脱ぎ捨てた。
 熱いシャワーを浴びた後、ローズシャボンの香りが癒されるボディソープで手早く躰を洗い、ヘア用品をリセットするために、髪も軽く洗う。
 こざっぱりして、化粧も落としてしまうと、童顔が顔を覗かせた。
 これが私だ。
 しょうがない。
 それ以上にも以下にもならないのだからしょうがない。
 香穂子はバスルームから出てパウダールームに出ると、手早く着替えて髪を乾かした。
 洗い晒しの髪が自分らしい。
 背伸びをして、こうして化粧をしているよりも余程に。
 香穂子は、吉羅が用意をしてくれた高級カジュアルラインの服に、少しばかり気後れしながら、パウダールームを出た。
「…お待たせ致しました…」
 香穂子が声を掛けると、ベッドの上に腰掛けていた吉羅がゆっくりと振り返った。
 その官能的な仕草に、むぬがドキリとする。
 鼓動がおかしくなってしまいそうなぐらいに、吉羅は艶やかだ。
「…着替え終わったようだね。送ろう」
「有り難うございます」
 吉羅は香穂子をじっと見つめると、厳しい表情になる。気難しさと冷酷さが滲んでいた。
 こんな子どもであることを今更ながらに認識をして、後悔でもしているのだろう。
 吉羅は頬にはらりと掛かった香穂子の髪を指先で除いた後、フェイスラインをゆっくりと撫でてくる。
 その動きに、香穂子は立っていられなくなった。
 吉羅はどうしてこんなにも色気があるのだろうか。
 今まで出会った男達のなかでは、圧倒的に存在感だ。
「…そうすると、あどけないね…君は…。…だが、それが男を狂わせるんだ」
 吉羅は低い色気が滲んだ声で呟くと、ゆっくりと顔を近付けてきた。
 その色香に香穂子は抵抗することが出来ない。
 吉羅の唇が重なる。
 最初はあらゆる意味でロマンティックなキスだったのに、段々と深くなって荒いものになる。
 荒々しい力強さに香穂子は支配されていった。
 唾液がこぼれ落ちてもお構いなしのキスは、香穂子に沸騰するよりも熱い情熱を生む。
 こんなにも激しいキスは他にないのではないかと、香穂子は思った。
 何度も激しく口付けられた後、立てなくなる程に感覚を支配される。
 もう自分ではどうすることも出来なくなるほどにキスに溺れた後で、香穂子はようやく解放された。
 息が乱れてどうしようもない。
 艶のある瞳で、縋るように吉羅を見つめると、躰を支えるように抱き締められた。
 香穂子がこんなにも官能に対して動揺しているというのに、吉羅はクールなままだ。
 キスなんて大したことはないのだろうと、どうせ思っているのだろう。
 香穂子はこんなにも動揺しているのに。
「大丈夫かね?」
 クールな声変わりただ下りてくる。
「…だ、大丈夫じゃないです…」
 キスだけで立てなくなってしまうなんて、恥ずかしくてしょうがない。
 日頃、吉羅がキスをしている相手は、こんな反応はしないだろうが。
 そう思うと、悔しくてしょうがない。
「…君は罪深い女性だよ。その無邪気さが男を翻弄する…」
「翻弄なんて…んっ…!」
 香穂子が反論しようとしたところで、吉羅は唇を塞いでくる。
 その動きがとても危険な感情を生んだ。
「無邪気さ無防備さは、時として大人の男には罪に見えるものだよ」
 吉羅は香穂子の頬をなでながら、嫌悪感が滲んだまなざしを向けてきた。
「誰彼もにそんな無邪気な無防備さを見せるんじゃない。良いね」
 吉羅は子どもに言い聞かせるように、厳しい口調で言う。
「そんなことしていません」
「そんなことをしているさ。無意識のレベルでね」
「無意識だったら気をつけられません」
 香穂子は厳しい吉羅のまなざしを、なるべく見ないようにしながら、厳しい声で言う。
「…とにかく、私の前以外は駄目だ。良いね?」
「…あなたにそんなことを指図をされる言われはありません…。あなたなら良いだなんて勝手な…」
 香穂子が苦々しい気持ちで反論している唇を、吉羅は激しく塞いでいた。



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