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吉羅の唇は香穂子の唇を容赦なく攻撃してくる。 その激しさと痛みに、香穂子は思わず顔をしかめた。 血が滲む程に激しいキスを受けた後で、ようやく解放される。 「香穂子、行こう」 吉羅は香穂子の手を力強く引っ張ると、そのままクールに部屋を出て歩いていく。 「…吉羅さん」 香穂子がたじろぎながら声を掛けても、吉羅は黙り込んだままだった。 車に乗り込み、香穂子は躰から力を抜く。 しょうがない。 吉羅に何と思われようとも、これが自分なのだから。 今更変えられるはずもない。 吉羅は無言で、香穂子を自宅まで送ってくれる。 会話のない沈黙が重たくて苦しかった。 「また連絡をする。それじゃ」 吉羅は手短に言うと、香穂子が車から出るなり走り出す。 その冷た過ぎる態度が切なかった。 婚約者のふりをするのは家族のためだと言い聞かせながらも、吉羅に逢うのがほんのりと嬉しい自分がいる。 香穂子は携帯の画面をじっと見つめながら、吉羅から連絡があるかチェックしてしまう。 こころでは強く惹かれているのは解っている。 だが、本気になってはいけない相手なのだ。 それを充分に解っているつもりだから、必死になって理性で押さえ付けている。 惹かれているのは官能に敏感な躰だけなのだと。 全く惹かれてはいないのだと。 なのにこころが否定しないのが、非常に苦しいところではある。 「…吉羅さん…」 解っている。 煙たい縁談や女を遠ざける為に、香穂子を利用しているだけなのだということを。 だが、こころの何処かでは、本物の恋であったら良いのにと、思わずにはいられなかった。 溜め息を吐きながら誰かの着信を待つなんて、今まではなかったかもしれない。 ふと、香穂子の切ない想いが届いたかのように、着信音が鳴り響く。 吉羅だ。 恐らくは、週末のパーティへの同伴依頼なのだろう。 それでも良いから、香穂子は吉羅に逢いたかった。 慌てて出ると、電話を待っていたのがまる解りだと思い、香穂子は深呼吸をしてから電話に出た。 「はい、日野です」 「香穂子、私だ」 携帯電話越しに聞こえる吉羅の声は、とても艶があり、香穂子は思わずうっとりとしてしまう。 表情が見えていたら、香穂子が吉羅に逢いたかったことは直ぐにバレるだろう。 「香穂子、週末は空いているかね?」 「…またパーティですか?」 「パーティ以外で、君を誘っては悪いかね?」 吉羅はいささか不機嫌さを声に滲ませている。それがまたいつにも増してとてもクールに聞こえた。 「…そういうわけではありませんが…」 「…だったら土曜日に一緒に出掛けないかね? 先日のパーティで紹介したあのご夫妻が、君と話がしたいと言って、自宅に誘って下さったのだよ。一緒に行かないか?」 先日のパーティでとても印象が良かった夫婦を思い出し、香穂子は思わず笑みを零す。 「あのご夫妻ならば、是非ともお逢いしたいです!」 「だったら、土曜日の朝八時に君を迎えに行く。待ってくれていたまえ」 「はい。有り難うございます」 「では、土曜日に」 「はい」 吉羅は用件だけを伝えると、直ぐに携帯電話を切ってしまった。 吉羅らしいと言えばらし過ぎる。 香穂子は携帯電話を握り締めながら、にんまりと微笑んでみせた。 吉羅に逢える。 それだけでこんなにも嬉しいとは思わなかった。 吉羅がそばにいる。 それだけで嬉しい。 吉羅に逢えると思うだけで、週末まで頑張れるような気がする。 認めたくはないが、確実に恋心は育っているように思えた。 吉羅と旧知の仲である夫妻に良い印象を持って貰いたくて、香穂子は柔らかな印象のメイクとワンピースを選んだ。 ワンピースは白を基調にした柔らかなカラーの花模様のシフォンのものを選び、髪は巻いて少しコンサバティブな印象に仕上げた。 これならば吉羅に恥をかかせることはないだろうと思う。 約束の時間よりほんの少しだけ前のタイミングで玄関先に出ると、吉羅の車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。 緊張する余りにかなりドキドキしてしまう。 吉羅の車が正確に香穂子の前にぴたりと停車した。 「待たせたね。さあ、乗りたまえ」 「有り難うございます」 開けられた助手席側のドアに、香穂子は何のためらいもなく、乗り込んだ。 吉羅は、香穂子の総てをチェックするかのようにじっくりと見つめてくる。 「…ご夫妻のところに行くには無難とはいえるだろう」 吉羅は冷徹に分析をするかのように見つめた後、ステアリングを握り締め、真っ直ぐと前を見つめる。 すっかり興味を失ってしまったかのような冷静さを瞳に宿している。 しょうがない。 吉羅は今のところ香穂子には恋情などを抱いているわけではないのだから。 それが何処か切なくてしょうがなかった。 車は高速に乗り、暫く走り続ける。 「どちらに行くんですか?」 「軽井沢だ。夫妻の家はそこにあるんだ」 軽井沢に向かうからこんなに早く迎えに来てくれたのだろう。 香穂子は納得しながらも、驚きを隠しきられなかった。 途中、幾つかドライブインを経由して軽井沢へと向かう。 暫く走ると、高級住宅がひしめきあう閑静な地域に入っていく。 香穂子とは住む世界が違うのではないかと思ってしまう世界だ。 だが、あの夫妻にはとても似合っている場所のように思える。 「もう直ぐ到着する。私たちと一緒にランチを取りたいそうだ。ちょうど良い時間に着くかもしれないね」 「ご夫妻にお逢いするのが楽しみです。ご一緒にランチが出来るのがなによりも楽しみです」 「そうだね」 吉羅は巧みにハンドルを切ると、一際見事で美しいヨーロピアン風の家の前で車を停めた。 吉羅は一旦車から出ると、インターフォンを押す。 「吉羅ですが、ただいま着きました」 「まあいらっしゃい! 待っていたわよ! 暁彦くん、香穂子ちゃん!」 明るい中庭に面したダイニングに通されると、既に新鮮で美味しそうな食事がダイニングテーブルの上に並べられていた。 「わぁ!凄い! 綺麗で美味しそうです!」 香穂子が素直に歓声を上げると、夫人はにっこりと微笑んでくれる。 それが香穂子にはとても嬉しかった。 「そんなに喜んで頂いて、私も作った張り合いがあるわ! 見た目は合格ね。だったら、次に味で合格を貰わなければならないわね」 夫人はとても嬉しそうに微笑むと、香穂子に席に着くように促した。 「では失礼します。有り難うございます」 香穂子はすっかり嬉しくなってしまい、礼儀をわきまえながらも笑顔で席に着いた。 「本当にふたりとも遠いところからよく来て下さいましたね。さあ、お疲れでしょうから召し上がって。お茶の時間にはクリームティーがあるから、ゆっくり楽しみましょうね」 「有り難うございます! とっても嬉しいです」 本当に嬉しくてたまらなくて、香穂子は満面の笑みを浮かべて、食事を楽しんだ。 旬の野菜が沢山使われている食事は本当に美味しく、野菜類は自家栽培と聞いて益々美味しく瑞々しく感じた。 食後のコーヒーの時間になり、香穂子は御礼がしたくてヴァイオリンの演奏を買って出た。 「有り難う。あなたのヴァイオリン演奏をとても楽しみにしていたのよ」 夫人の言葉が嬉しくて、香穂子はこの麗しい日にぴったりな、ラフマニノフを奏でる。 吉羅はその様子をクールなまなざしで見ていた。 |