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「本当に有り難う! 良い演奏だったわ!」 「こちらこそ有り難うございます。こんなに美味しいランチは、東京じゃ食べられないです! 感謝の気持ちが、ヴァイオリン演奏で伝わらないのが切ないですけれど…」 「充分ですよ! 有り難う」 夫人は本当に嬉しそうに微笑むと、香穂子の頬をまるで自分の子どものように撫でてくれた。 食事が済み、香穂子は夫人の片付けの手伝いをすることにした。 食事をご馳走になった御礼だ。それにはこんなことでも返すことは出来ない。 「香穂子ちゃん、あなたは本当に素直で良い娘ね。暁彦くんが女性を連れて来たのはあなたが初めてなんだけれど、あなたを選んだのが解るような気がするわ」 自分が初めて。 その事実が香穂子にとっては嬉しくてしょうがない。 吉羅がこうして親しいひとに紹介してくれるのが、とても嬉しかった。 香穂子は楽しく手伝いをしながら、話に花を咲かせていた。 吉羅は主人と一緒に、穏やかな気持ちでダイニングにいた。 こんなにも華やいだ安らぎは初めてなのかもしれない。 香穂子は本当に癒してくれる。 自分を癒して、時には苛々させて、幸せな華やいだ気持ちにもさせてくれる。 今までこのような女性と出会ったことは吉羅にはなかった。 だからこそ新鮮で、同時に苦しく想うこともある。 「暁彦くん、良い娘さんを選びましたね。やはり、君は思った通りの最高のパートナーを見つけられたね。私も妻も嬉しく思っているよ」 「有り難うございます。香穂子もそれを聞いたら喜ぶと思います」 「そうか…」 穏やかな笑みを称えると、主人は何度も頷いてくれる。 ここの時間の流れは本当に素晴らしい。 こんなにも癒される時間はない。 今回は更にその癒しの度合いが増しているような気がする。 その理由は解っていた。 香穂子だ。 香穂子が共にいるからこそ、こうして安心出来るのだ。 吉羅は香穂子の楽しそうな横顔を見つめながら、ごく自然に微笑んでいた。 後片付けも終わり、お茶の時間までのんびりとした時間が出来た。 夫人は少し横になるということで、主人が一緒に寄り添って行ってしまった。 ふたりきりで、手入れが行き届いた庭を歩く。 「吉羅さん、有り難うございます。こちらに連れてきて下さって。本当に楽しくて、いつまでもお世話になりたくなってしまいますね」 香穂子が笑顔を向けると、吉羅もまた珍しく笑顔をくれた。 「こちらこそ。君には感謝しているよ。本当に有り難う。ご夫妻も喜んで下さっているだろう…」 「私が嬉しいんですよ。こんなに素敵なおもてなしはありません。本当に憬れてしまいます。あのような生活…」 香穂子がうっとりと呟くと、吉羅が不意に手を握り締めてきた。 手を繋がれるだけで、このまま呼吸が止まってしまうのではないかと思う程に、ドキドキしてしまう。 頬を赤らめて吉羅を見上げると、いつもと同じクールな表情のままだった。 「…今日、君をここに連れて来ることが出来て、私はとても良かったと思っている」 吉羅の声で淡々と言われると、香穂子は息を呑んでしまうほどに嬉しかった。 「…とても良いご夫婦ですね…。共に白髪が生えるまで一緒だなんて素敵です」 「そうだね。お二人が結婚したのは十年程前だ。どちらも困難を乗り越えて、至極の愛を手に入れた。回り道はされたようだがね」 「…それでも、最高の愛を手に出来れば素敵です…」 「…そうだね」 吉羅は何処か切ない瞳を空に向けると、じっと見つめていた。 ふたりで手を繋いで庭を見るというだけで、幸せな気分になる。 香穂子は胸の奥底が痛むのを感じながら、ずっと吉羅に寄り添っていた。 「本当に綺麗な庭ですね。私、凄く嬉しいです。こうして綺麗なお庭を見ているだけで、癒されますよね」 「そうだね…」 香穂子は、横にしっかりと寄り添ってくれている吉羅を見上げながら、ずっとこうしていられたらと思わずにはいられない。 吉羅が“運命の男性”だったら良かったのに。 ふたりがこうしているのは、嘘の恋だ。 この事実が、今は重苦しくのしかかる。 こうして手を繋いでいても、こころは結ばれていないのだ。 そう思うと胸が苦しくてしょうがなかった。 香穂子もまた空を見上げる。 空を見ていれば、明るい未来がやってくることを夢見ることが出来るから。 吉羅への想いを恋だとは認めたくはない。 認めてしまえば、苦しみしか待っていないから。 香穂子が空ばかりを見ていると、吉羅が手を強く握り締めてきた。 「空に何があるのかね?」 「綺麗だからですよ。吉羅さんこそ、空を見ていたのはどうしてですか?」 「綺麗だから」 「じゃあ同じ理由ですね」 香穂子が柔らかく笑うと、吉羅もまたフッと優しい笑みを浮かべる。 「君にかかると敵わないね」 吉羅は甘さが滲んだ艶っぽい声で呟くと、同じように空を見上げた。 「東京や横浜の空よりも綺麗だからね」 「確かに綺麗です、空気が澄んでいますから」 「そうだね」 こうしてふたりきりでずっとこうしていられたら、こんなにも素晴らしいことはないというのに。 だがそれは香穂子には許されないことだ。 だが繋いだ手を今は放したくはなかった。 「暁彦くん! 香穂子ちゃん! お茶にしましょう!」 明るい夫人の声が聞こえて、ふたりは振り返る。 するとふたりを微笑ましそうに見ている夫婦の姿があった。 香穂子が手を離そうとすると、吉羅は逆に手を握り締めてくる。 「離すな」 「はい…」 香穂子は吉羅の手の力強さに、軽く頷いてみせた。 ふたりで屋敷の中に向かうと、スコーンと紅茶の良い香りが漂ってくる。 「美味しそうな匂いです」 「君は甘いものには目がないようだね」 「はい、甘いものは大好きなんです」 「覚えておこう」 吉羅の言葉に、香穂子はほんの少しだけ、にっこりと微笑んでみせた。 リビングに案内されて向かうと、ヴィクトリア調のとても美しい家具が置いてある。 まるで夢のようだ。 香穂子は思わず声を上げてしまう。 「素敵です」 「有り難う。あなたに気に入って貰えてとても嬉しいわ」 「何だか夢見るみたいですよ」 香穂子がうっとりと呟くと、夫人は嬉しそうに頷いていた。 吉羅とふたりでクリームティーと呼ばれる、イングランドの伝統的なお茶を頂く。 紅茶とスコーン、そしてクローデットクリームの組み合わせだ。 これぞ極上のお茶の時間を過ごすことが出来る、最高のアイテムなのだという。 香穂子は、美味しいお茶とおしゃべりに興じながら、楽しい午後の時間を過ごした。 これが終われば、横浜に帰らなければならない。 それが名残惜しい。 ティータイムの後片付けを手伝った後で、香穂子は吉羅と一緒に帰る挨拶をする。 「折角、来て下さったんだから、夕飯を食べて、是非、泊まって帰って下さいな。部屋ならありますし」 夫人は本当に別れたくないとばかりに、切ない子どものような表情をした。 「私からもふたりにお願いをするよ。明日は日曜日だ、用がなければ泊まっていかないかね?」 夫婦に懇願されるような瞳で見つめられると、かなり辛い。 「私は構わないが、君次第だ、香穂子」 吉羅はどちらでも良いとばかりに香穂子を見つめてくる。 「是非、泊まっていって下さいな」 老婦人の優しいしわしわな手に握り締められて、香穂子は切ない気分になる。 「解りました。今夜はお世話になります」 香穂子が頭を下げると、夫婦は本当に幸せそうな笑みを浮かべていた。 |