8
この屋敷に今夜泊まると決めた後は、のんびりとした気分で辺りを散策することが出来た。 「君はここがかなり気に入ったようだね」 「だって温かい雰囲気がするんですもの。こういう雰囲気が大好きなんです。都会で育ったからかもしれないですけれど」 「私も、ここは落ち着くことが出来る悪くない場所だと思っているよ」 「そうなんですよ。私も大好きな場所になりそうです」 香穂子の言葉に、吉羅は認めるとばかりに頷いてくれた。 夕食も心尽くしのもので、とても美味しくて、ご機嫌な気分で時間を過ごすことが出来た。 「さてお二人に部屋を用意しましたから案内しましょう」 「有り難うございます」 二階に案内をされて、香穂子はすっかり別々な部屋が用意されるとばかり思っていた。 「こちらの部屋にはバスルームもお手洗いもありますから、ゆっくりとしていただけますからね。お客様用に設計した部屋なんですよ」 「有り難うございます」 夫人は部屋のドアを開けて、ふたりに中に入るように促す。 「さあお二人ともゆっくりされて下さいね」 香穂子は、“お二人とも”と言われて、大きな瞳を丸くする。 吉羅は香穂子が驚くのを遮るように、スマートでクールな対応をする。 「有り難うございます。では、ゆっくり致します」 「ええ。お客様用のパジャマとバスローブは用意していますからお使いになってね。それでは」 夫人が部屋から遠ざかる音を聞いた後で、香穂子は吉羅を見上げた。 「一緒の部屋だなんて、聞いていませんよ!」 「だから君は浅はかなんだよ…。私たちはふりをしているからとはいえ、夫妻から見れば“婚約している”ふたりなのだから、当然、考えられる事態だよ」 「…だけど…」 香穂子は切なさと何処か緊張の余りに唇を噛む。 「…普通は考えつくだろう? まあ、私は君には手を出さないから、安心して構わないよ」 吉羅に余りにもキッパリと言い切られてしまい、香穂子は憤慨せずにはいられなくなる。 だが、それ以外の状況は、いささか緊張してしまう。 これで良いのだと思うのに、何だか切なくてしょうがなかった。 「ダブルベッドだがかなり広い。端と端に別れれば大丈夫なはずだ。だから君も安心して構わない」 吉羅は、香穂子にはさほど興味はないとばかりに呟く。 それがかなり悔しくて痛いのはどうしてなのだろかと、香穂子は考えてしまった。 「さて、ふたりの境界線を考えなければならないね」 吉羅はごく自然に言うと、ベッドの中央部分の天井に、天蓋のようにシーツを吊し始めた。 「君もこれならば気にならないだろう?」 「有り難うございます」 吉羅が手早くシーツを吊しているのを眺めながら、香穂子は安心したような切ないような複雑な気分を味わっていた。 吉羅もやはり同じベッド眠るのは嫌なのだろう。 こうしてテキパキと準備をしている吉羅を見つめながら、その昔に夜中に見たモノクロームのロマンティックコメディを思い出していた。 あの映画はとてつもなく楽しくて、ロマンティックだった。 「じっと楽しそうに見ていてどうしたのかね?」 「以前、深夜に見たモノクロームの映画を思い出していたんです」 「ああ、私もその映画なら知っている。ハリウッドのロマンティックコメディの原点のような作品だからね」 吉羅はラフなシャツのボタンを幾つか外して、疲れたように髪をかき上げる。 ごく自然にした仕草なのだろが、香穂子はどぎまぎする。 吉羅から発せられるフェロモンは相当で、同じ空気を吸い込むだけで胸が痛くなった。 落ち着かない。 だがどうしようもない。 香穂子は苦し紛れに、吉羅に微笑みかけた。 「暑いですね」 「そうだね…」 吉羅は頷くと、香穂子にバスルームを指差す。 「疲れているだろう。早くお風呂に入って眠ると良い」 「有り難うございます」 「ご夫妻にお礼を言ってから、お風呂に入ります」 「ああ」 香穂子はこれ以上ここにいると落ち着かなくなってしまうと感じ、慌てて部屋を出た。 リビングにはまだ灯がついていて、挨拶をしようとして香穂子はハッとする。 「…こうしてひとの手で撫でられていると、痛みはマシになります…」 「それは良かった…」 夫婦のどこか切ない会話に、香穂子は立ち止まって泣きそうになる。 「暁彦くんのお相手がとても良い娘さんで良かったです…。暁彦くんの結婚式には間に合わないかもしれないですが…、それでも…嬉しかった…。本当は暁彦くんの子どもを見たかったですが…」 寂しそうな声に、香穂子は涙がこぼれ落ちる。 「あのふたりはきっと良い夫婦、良い親になると思うよ…。きっと間に合うさ…」 「だと良いですが…」 香穂子はこれ以上聞いてはいられなくて、踵を返したところで、吉羅と遭遇する。 吉羅もまた切ない顔をしていた。 「…吉羅さん…」 「香穂子…」 涙目で吉羅を見上げれば、力強く抱き締められてしまった。 こうして胸に抱き締められるのが、とても嬉しくてしょうがない。 こうして抱き締められると、心までつつみこんでくれているようで、心地が良かった。 「…戻ろうか…」 「…はい…」 吉羅に肩を抱かれて部屋まで戻った後、再び抱き締めてくれた。 「…泣くな…」 吉羅は優しく言うと、香穂子の瞳に滲んだ涙を指ですくう。 「…だって…。吉羅さんはご存じだったんですか…?」 「ああ。知っていたよ…。夫人は後少ししか生きられない。余命宣告を受けている。だからこうして君を連れてきて、逢わせたんだ」 「…そんな…」 香穂子は言葉を詰まらせると、再び吉羅を見上げた。 「泣かないんだ。香穂子、明日の朝、君が顔を腫らせていたら夫人は心配する。それに私にもあらぬ疑いが起こるからね」 「…吉羅さん…」 苦笑いを浮かべながらも、吉羅の表情はとても優しい。 それが嬉しかった。 「さあ風呂に入って来なさい。そして早く寝るんだ」 「有り難うございます」 吉羅に髪を撫でられて、子どもをあやすように言われる。 それでも香穂子には掛け替えのない甘い気分になる。 「…さあ」 「解りました」 香穂子はバスローブとパジャマを抱えて、バスルームへと向かう。 肌が敏感なぐらいに震えていた。 バスキューブをバスタブに溶かして、ゆっくりと躰を沈める。 それだけでとても心地良い気分になった。 手足をだらりと伸ばすと、リラックスすることが出来るはず。 なのにこころの何処かで甘い期待と緊張を感じていた。 肌がピリピリするほどに敏感になった後で、香穂子はバスルームを出て、バスローブを羽織る。 髪を乾かして、簡単に基礎化粧品を使うだけだ。 それでも艶やかな肌に見せることが出来る。無意識に。 香穂子はバスローブからパジャマに着替えて、浴室から出た。 入れ替わるように吉羅がバスルームに入る。 「先に寝ていなさい。明日も長いドライブになるからね」 「…はい」 香穂子は心許無い子どものように呟くと、自分のテリトリーのベッドに入る。 何だか落ち着かない。 眠れそうにない。 夫妻の切ない心情や、吉羅の強い存在感を感じてしまうから。 ドキドキと切なさで、心臓が落ち着かなかった。 吉羅がバスルームから出てきたのが解る。 存在だけでかなりの艶っぽさだ。 吉羅がベッドに入る音がして、香穂子は益々身を固くした。 長い夜が始まる予感がした。 |