9
吉羅の存在感、衣擦れの音に、香穂子はどうしようもない程に甘くときめいてしまう。 こんなにも切なくて苦しく、なのに甘い緊張は初めてだ。 躰を固くして小さく縮こまってしまう。 甘さの含んだ息を押し殺して、じっとしていた。 背中に吉羅の熱を感じる。 その熱が切ないほどに熱かった。 鼓動が激しくなるほどに、香穂子の肌に熱を伝えてくる。 喉がからからになるほどの熱に、目眩を覚えた。 じっとこのまま朝までいるのだろうか。 そうであれば、これほどまでに長く緊張する夜はない。 手を出されてしまうのが怖いわけじゃない。 逆に言えば、抱き締めて貰えないのが切ないのだ。 香穂子は胸が張り裂けてしまうほどの息苦しい緊張を覚えながら、ひたすら息を殺してじっとしていた。 夜が更けてきた。 疲れていたせいかうとうととまどろんでいたらしい。 不意に物音が聞こえて、まどろみを破られる。 香穂子が、何かあったかと思い起き上がると、吉羅も一足早く起き上がっていた。 ふたりしてベッドを出ると顔を見合わせる。 「…何かあったのでしょうか…?」 「…夫人は余り具合が良くないと聞いていたから…心配だ」 「はい」 何もなければ良いと思いながら、香穂子は先程の会話を思い出す。 発作のようなことが起こっていなければと、祈るばかりだ。 「…吉羅さん…」 香穂子が不安に思いながら見上げると、吉羅は肩をそっと抱いてくれる。 「…大丈夫だ…。平気だから…」 「はい」 吉羅は香穂子の手を握り締めると、そっと部屋から出た。 確かめる為に吉羅が様子を見ている。 すると主人が、疲れたような顔で部屋から出て来た。 「…暁彦くん、香穂子ちゃん」 ふたりが心配そうに見つめているのを、主人は哀しそうに見つめる。 「心配しなくても大丈夫だよ、ふたりとも。発作が起こったせいで、誤って水差しを倒して割ってしまったんだよ…。それだけだ。痛み止めを飲ませたから大丈夫だ。ぐっすりと眠り始めたから、大丈夫だ」 「…良かったです」 ホッとしながらも、香穂子は切ない気分でいっぱいになる。 「…だから明日の朝には元気な顔を見せられるよ。ふたりとももう遅いから眠りなさい…」 主人の言葉に、ふたりは心配に想いながらも、引くしかない、今は。 「…じゃあ失礼します。おやすみなさい」 「おやすみなさい」 「おやすみ、ふたりとも…」 主人に見送られて、ふたりは部屋へと戻った。 その途端に、香穂子の瞳から涙が溢れてくる。 洟を啜りながら俯くと、吉羅は頬をそっと撫でてきた。 「…泣くんじゃない…」 「…解っています…」 香穂子は笑おうとしたが、上手く笑うことが出来ない。 「…笑わないといけないのは解っているんですが、上手く笑えないんです…。…だって…余りにも切ないから…。苦しいから…。上手く出来ない…」 香穂子が泣きじゃくると、吉羅は突然、抱き寄せてきた。 その強さに、香穂子はくらくらしてしまう。 「…君は素直でナイーブだね…。泣きなさい。思う存分に。ないてすっきりすれば、ぐっすりと眠れるだろうから」 「…暁彦さん…」 吉羅に頭ごと力強く抱き締められて、香穂子はこころが命ずるままに素直に泣きじゃくる。 「…あんなに愛し合っているピュアなおふたりだから、あんなにも素敵な方々だから…苦しんでなんて欲しくないんです…」 「香穂子…」 吉羅は同意をするように、香穂子を抱き締めて、その背中を撫でてくれる。 そこにはセクシャルな意味合いなど何処にもなかった。 まるで父親が娘をあやすように強く抱き締めてくれた。 「…吉羅さん…、有り難うございます…。吉羅さんがこうして慰めて下さったから、私は何とか大丈夫なんだと思います…」 涙でグチャグチャな顔で子どものように微笑んだ瞬間、いきなり顎を両手で包み込まれた。 吉羅の瞳に艶のある煌めきが滲む。 「…香穂子…、君はヴァイオリンの音色と同じイメージだね…」 「暁彦さん…」 吉羅は香穂子に微笑むと、顔に光る涙を丁寧に舌先で拭っていってくれた。 「…吉羅さん…」 先ほどまではあんなに切ない気持ちだったのに、今は甘くて華やいだときめく感覚のほうが大きくなる。 吉羅はしっとりと唇を重ねてきた。 最初はソフトに優しく、徐々に深みを増していく。 以前受けたキスに比べると、天使の羽根のような柔らかなタッチのキスだ。 それが幸せな気分を、香穂子に味あわせてくれた。 キスの後、もう一度柔らかく抱き締められる。 「落ち着いたかな?」 「逆に落ち着かなくなったかもしれません」 「そうか…」 はにかんだ香穂子の表情から想いを感じ取ったのか、吉羅の笑顔は安らぐほどに魅力的な笑みになる。 それがまた、香穂子を幸せな気分にさせてくれる。 「明日も早いから今夜はゆっくりと眠ろう」 「…はい。有り難うございます」 吉羅は、仕切りにしていたふたりの間を隔てていたシーツを取り払うと、香穂子の手を握り締めて、そのままベッドに潜り込む。 「こうしていたら、君も眠れるだろう…」 「有り難うございます」 吉羅は香穂子とふたりでベッドに横たわると、優しく抱き締めて髪を撫でてくれる。 そのリズムがとても優しかった。 少しずつ安心が広がっていく。 こうして吉羅に抱き締められていると、今までで一番の安心が感じられるような気がした。 いつの間にかうとうとと夢の世界にやってきたらしい。 吉羅が苦しんでいるのに手を差し延べてやることが出来ない自分がいて、声を出そうとしても上手くいかない。 冷や汗が出る。 夢だと何処かで解っているはずなのに、リアルな汗が背中に滲んでいた。 吉羅を助けられない恐怖に、香穂子は怯えてしまう。 吉羅が苦しんでいるのに手を差し延べられないだなんて、こんなにも苦しいことはない。 手を伸ばしても届かなくて、泣き叫んだ瞬間に夢から醒めた。 心臓が跳ね上がって墜落したような感覚。 香穂子が汗をびっしょりとかいて起き上がると、吉羅が心配そうに見つめてきた。 「大丈夫かね? 香穂子…」 吉羅の胸に思い切り抱き締められて、香穂子は浅い深呼吸をする。 切ないぐらいに安心出来る広い胸に、素直になって泣いてしまう。 「…大丈夫だ…。少なくとも今は私がそばにいる…」 「有り難うございます。吉羅さんがそばにいて下さると、本当に安心します…」 「それは良かった…」 吉羅の手のひらが、香穂子の背中を柔らかく撫でてくれる。 それがとても心地が好かった。 「こうしていようか?」 「こうしていて欲しいです…」 「解った」 吉羅に抱き締められていると、薔薇色に輝く未来を見つめることが出来る。 「…夫人…、明日には良くなっていると良いですね…」 「…ああ」 吉羅の腕のなかで小さくなっていると、幸せな気分が降りてくる。 「香穂子…、来週末も逢わないか?金曜日の夜に、ふたりでゆっくりと食事を楽しみたい」 「はい。喜んで。私も吉羅さん一緒にいたいです…」 こうしていると、芽生え始めた吉羅への恋心を、素直に認めることが出来る。 「…横浜で海と夜景を見ながらゆっくりしよう。パーティのようなくだらないものに煩わされない週末を過ごしたいからね」 吉羅の声は確実に幸せをくれる。 香穂子はそれに酔い痴れながら、いつの間にか穏やかな幸せな眠りへと落ちていった。 |