10
翌朝、いつも以上に気持ち良い朝を迎えることが出来た。 香穂子がゆっくりと瞳を開けると、吉羅が悪夢から守るように抱き締めていてくれる。 それが嬉しくてしょうがない。 吉羅は目を閉じていても、本当に完璧に整っている。女である自分が恥ずかしくなるほどだ。 香穂子が吉羅の寝顔を堪能していると、視線に気付いたように目を開けた。 「…おはよう…」 髪をかきあげながら、吉羅は朝特有の清々しい艶のある笑みを向けてくる。 まるでアイドルを見てドキドキする少女のように、香穂子ははにかんでしまう。 「お、おはようございます…」 「随分とぐっすり眠っていたが、疲れは取れているかね?」 「え? あ、はい、取れています…。いつも以上に」 戸惑いと恥ずかしさを頬に滲ませながら、香穂子は吉羅を見た。 「…先に…起きていらっしゃったんですか?」 「ああ。私も久し振りに清々しい目覚めだったよ…。君の寝顔が面白かったから、堪能させて頂いたよ」 吉羅はさらりと言うと、香穂子の髪を撫で付けてきた。 「…恥ずかしいです…。寝顔を見られるのは…」 「恥ずかしがることはない。君の寝顔は誰にも見せたくはないと、私が思うほどだったからね」 「…あ、あの…、この場合は、“有り難う”と言って良いのか、迷いますね…」 「そうだね」 吉羅は苦笑いを浮かべた後で、香穂子の唇に軽くキスをした。 「起きようか。勘ぐられても困るから」 「そうですね…」 香穂子は、吉羅の腕から離れることを切なく思いながら、ベッドから起き上がった。 「君は先にシャワーを使いたまえ。パウダールームで着替えなさい」 「有り難うございます」 香穂子は素早くシャワーを浴びた後で、パウダールームで着替えて身支度をする。 鏡に映る自分はいつもよりも艶やかに見える。 それが何だか嬉しくてときめいてしまう。 肌なんて基礎化粧品と携帯している日焼け止めを塗ってしまえば、とても艶のある輝きになったし、唇はグロス効果のあるストロベリー色のものを塗れば、綺麗になった。 「…これで良いかな…? まあ綺麗に仕上がったかも…」 ストロベリーの香りがほんのりとするリップだから、ソリッドパフューム代わりに、膝の裏と脛にほんのりと塗ってみると、幸せな香りがした。 「良い感じになったかな?」 香穂子がにっこりと微笑むと、鏡が背中を押してくれるような気がした。 パウダールームから出ると、吉羅は電話をしているようだった。 「…ああ。解っている。水曜日は君の為に空けておこう。解った。色々と話なさなければならないからね…」 吉羅の相手は明らかに女性だった。 香穂子に話す声よりも、優しくて温かい。そして艶すらも感じられた。 恐らくは吉羅の大切な女性なのだろう。 また、胸が痛くなる。 呼吸が巧く出来なくなる。 自分は吉羅の恋人なんかじゃない。それはよく解っている。 ただ婚約者のふりをしている、とても便利な相手に過ぎない。 頭では理解しているのに、どうしてこんなにも切ないのだろうか。 香穂子は、折角、恋人と話している吉羅に、気を遣って迷惑をかけまいと、そっと部屋から出て行こうとした。 「……!!!」 いきなり吉羅の腕が伸びてきたかと思うと、腕のなかに抱き寄せられてしまう。 何処にも行かせないとばかりに、力強く抱き寄せられた。 「…では、また」 吉羅は電話を切るなり、香穂子の唇を塞いできた。 荒々しく自分のものであることを刻み付けるように。 唇が切れてしまうほどに激しいキスをされた後で、ようやく解放された。 唇に僅かに血の味がする。 恨めしい想いで吉羅を見つめると、冷たい笑みが返ってきた。 「…吉羅さん…」 「気は遣わなくて良いんだ…。それと婚約者のふりをして貰っている間は、君は私のものだ。それを忘れるな…」 吉羅の低い声に、香穂子は俯いて唇を噛み締める。 もし恋情が少しでも滲んだ独占欲ならば、これほど嬉しいことはないというのに。残念ながらそうではないのだ。 ただ自分が自由に出来るツールに過ぎない。 「ふりをしていない時の私は、自由です…!」 「…自由か自由でないかを決める権利は君にはない。解っているとは思うがね」 吉羅はクールに言うと、香穂子の両頬を包み込む。 「私がそばにいない時はあなたは自由なのと同じです」 「私はいつも自由だ。誰にも束縛はされない。君もそれをよく覚えておくことだ」 吉羅は香穂子の唇に親指で官能的に触れる。 触れられるだけで呼吸が苦しくなるの程に、切なかった。 吉羅は焦らすように唇から指を外すと、そのままパウダールームに消えていく。 心臓がいくらあっても足りなかった。 吉羅がシャワーを浴びている間、香穂子は手早くベッドメイクをし、帰る準備をする。 素晴らしい屋敷だったので、もう少し滞在したいが、そうもいかない。 綺麗に片付けて、なるべく迷惑を掛けたくはなかった。 香穂子は片付け終わると、ダイニングへと下りていく。 すると、夫人が朝食を作っているのが見えた。 「…大丈夫ですか!? 手伝いますよっ!」 「有り難う香穂子ちゃん、ですがもうすぐ出来ますよ。料理を並べるのを手伝って貰えますか?」 「はい、喜んで!」 香穂子が笑顔で答えると、夫人も嬉しそうに笑ってくれた。 食事は、所謂、コンチネンタルブレックファーストというもので、沢山の料理が並べられていた。 「香穂子ちゃんはコーヒー、紅茶、ミルクティー、カフェオレ、どれが良いかしら?」 「カフェオレでお願いします」 「はい」 運ぶぐらいしか出来なかったが、香穂子には充分に楽しい手伝いとなった。 料理が並べ終わる頃、吉羅と主人がゆっくりとダイニングにやってきた。 全員で食卓について、楽しい朝食時間を過ごす。 昨夜はあんなにも苦しそうだった夫人が、今日は明るい笑顔でいる。 それが香穂子には嬉しかった。 夫妻は、とても幸せそうな瞳で、香穂子たちを眺めてくる。 「あなたたちを見ていると微笑ましくて、とても幸せな気分になれるわ。今日はとても最高な朝食を頂いたわ。どうも有り難う」 夫人の柔らかな優しさに、香穂子は泣きそうになる。 「こちらこそどうも有り難うございます。私こそ、ご夫妻を見ていたら、こういう夫婦になれたらと思いますから…」 「有り難う…。あなたたちならきっとなれるわ!」 「有り難うございます」 吉羅が静かな幸福を滲ませながら呟いてくれたのが、なによりも嬉しかった。 穏やかな朝食を済ませて、香穂子は夫人と共に後片付けを行なう。 最後ぐらいは片付けはいらないと言われたが、それでもやらなければ気が済まないと香穂子は思った。 片付けの後で、いよいよ軽井沢を出発する。 「それではお世話になりました」 「こちらこそ有り難う。とても嬉しかったわ」 夫人に見送られて、香穂子は寂しさと切なさを感じる。 「ここであなたたちの子どもさんと一緒にいつか遊べると良いのだけれどね…」 夫人は寂しげな夕日のような笑みを浮かべると。香穂子をそっと抱き締めてくれた。 ふわりとベビーパウダーの香りがした。 香穂子たちが車に乗り込んで出発しても、夫人は車が見えなくなるまで見送ってくれる。 香穂子はもう一度逢えることを強く願っていた。 |