*嘘恋*

11


 吉羅とは婚約者のふりはしているが、毎日逢うわけではない。
 逢わない限りは、自由でいられる。
 勿論、束縛されるわけではない。
 吉羅からは特に連絡もなく、香穂子はのんびりとした日常を過ごしていた。
 水曜日、香穂子は、ランチタイムのプチコンサートの仕事が入り、朝からリハーサルを重ねて気合いを入れていた。
 高級レストランのプチコンサートだから、演奏するのも緊張する。
 余りカジュアルな曲は選択出来ないから、しっとりと楽しめる曲を選んだつもりだ。
 香穂子は白にグリーンの愛らしいラインが入った膝丈のドレスを着て、ステージへと立った。
 観客は音楽と食事を楽しみにしている、優雅な人々ばかりだ。
 そのなかで、香穂子は吉羅の姿を見つけ、息を呑んだ。
 美しく艶やかで明るい女性と一緒にいるのが見える。
 ふたりは本当に似合いのカップルに見えた。
 今の吉羅は自由のなのだ。
 香穂子がそうであるように。
 香穂子は心臓が止まってしまうのではないかと思う程の痛みを感じながら、ステージに立つしかなかった。
 今出来ることは、ヴァイオリンをどこまで頑張って演奏が出来るかだ。
 香穂子は集中力を高めると、ただヴァイオリンだけに意識を持つようにした。
 やがて吉羅が厳しいまなざしでこちらを見つめているのを感じた。
 そんなものは撥ね除けてみせる。
 香穂子は背筋をピンと伸ばしながら、吉羅の悪意などは撥ね除けるように演奏をした。
 ヴァイオリン演奏を終えると、食事を楽しみながら聴いてくれていた人々が、温かな拍手をくれる。
 吉羅以外は。
 香穂子は深々とお辞儀をして楽屋へと向かった。
 今日の仕事はこれでお終いだ。この結果が良ければ、ディナータイムでも呼んで貰えるのだ。
 ここのディナータイムでのコンサートは、新人クラシックアーティストならば、誰もが夢見るものだ。
「今日の演奏は非常に良かったです。また、来て頂けると嬉しいですよ」
 レストランオーナーである、気品の溢れた女性が、香穂子ににこやかに話し掛けてくれた。
「本当に噂通りの温かな音色ね。ディナータイムにも是非お呼びしたいわ。あなたにぴったりの演奏家をピアノ伴奏につけるわ。駆け出しの指揮者なんだけれど、ピアニストとしても実力があるの。今日は、偶然にもランチを食べに来ているから、紹介しましょう。いらっしゃい」
「はい」
 クラシックの音を聴き続けているオーナーが太鼓判を押す伴奏者とは誰なのだろうかと、香穂子は楽しみにする。
 オーナーに着いてレストランフロアに戻ると、吉羅が女性と親しそうに話しているのが見えた。
関係ない。
 今、この瞬間は縛られているわけではないのだから。
 吉羅の横をすり抜けて斜め向こうに、香穂子と余り年齢が変わらない爽やかそうな青年がいた。
 オーナーを見るなり、礼儀正しそうに頭を下げた。
「土浦くん、あなたに是非紹介したい女性がいるのよ。こちらは日野香穂子さん。先ほどヴァイオリン演奏をして下さったお嬢さんよ。今度、ディナータイムにも演奏を頼もうと思っているのよ。その時に、あなたにピアノ伴奏をして貰いたいと思って、ご紹介するわ」
「日野香穂子です。宜しくお願いします」
 香穂子が丁寧に挨拶をすると、土浦と呼ばれた青年は実直な笑顔で挨拶をしてくれた。
「土浦梁太郎です。よろしく」
 よく通る声に好感を覚えながら、香穂子は頭を下げた。
「では早速、打ち合わせをしながら、食事をしましょうか。日野さん、お腹が空いているでしょう?食べましょう」
「はい、有り難うございます」
 香穂子が明るく言うと、土浦も爽やかに笑ってくれた。
 食事はとても美味しくて、打ち合わせも有意義なものになった。
 土浦と同い年であることが解り、香穂子は益々好感を持った。
 仕事の話が進み、香穂子はディナータイムにも演奏させて貰えることになった。
 だが打ち合わせの間、吉羅の厳しいまなざしを、香穂子は背中に強く感じていた。

 土浦とはすっかり打ち解けることが出来たので安心した。
 これで何度かリハーサルをすれば、演奏出来るようになるかもしれない。
 新しい仕事に意欲的になり、前向きな気分でレストランを出ると、吉羅が待構えていた。
「…吉羅さん…」
「来るんだ」
 いきなり腕を掴まれて、レストラン横の駐車場に連れていかれる。
 その手の力が強くて、香穂子は思わず顔をしかめた。
「吉羅さん、ご一緒だった綺麗な方はどうされたんですか!?」
「彼女は帰った。それに彼女とのことは君には関係ない」
 吉羅はキッパリと言い切ると、早足で愛車まで行く。
 直ぐに助手席のドアを開けて香穂子を強引に乗せると、素早く運転席に乗った。
「お仕事は」
「勿論、するさ。私が仕事を終えるまで、君はCEO室で待っているんだ」
 吉羅は有無言わせないとばかりの雰囲気で言い放つと、自社に向かって車を走らせる。
「仕事が終わった後、君には付き合って貰うから、そのつもりで」
「き、今日はパーティがあるんですか?」
「いいや。私個人の用だ」
 吉羅はいつもよりも冷たい声で言うと、それ以上は口を閉ざしてしまった。
 こうして吉羅に強引なことをされても、こころの奥底で不快だと思わないのは、やはり恋心ゆえなのだろう。
 先ほど打ち合わせをした土浦も、好青年だとは思うが、ときめくことはない。
 やはりときめきは、吉羅にしか覚えないのだ。
 香穂子は黙ったまま、ただじっとする。
 直ぐに吉羅の会社に車が到着し、香穂子は手を握られてそのままCEO室へと連れていかれてしまう。
「香穂子、君は私のものだということを忘れてしまっているのではないかね?」
「私はあなたのものじゃありません。あなたが私のものでは有り得ないように、私もまた自由なんです」
 香穂子が震える声で反論しても、吉羅は眉を軽く上げただけだ。
「君は本当に解ってはいないようだね」
 吉羅は不快そうに眉根を寄せると、いきなり唇を重ねてくる。
「…んっ…!」
 ここはエレベーターの中だ。
 誰が乗ってくるのかが解らない。
 だがそんなことはお構いなしとばかりに、吉羅は激しく唇を重ねてきた。
「…んっ…!」
 唇を噛まれ、舌先で口腔内を凌辱される。
 快楽が腰に響き、立ってはいられなくなった。
 ふらふらになったところで、エレベーターが最寄りの階に止まる。
 上手く歩けないのを気遣ってか、吉羅は香穂子の腰を抱いてエレベーターを降りた。
「このエレベーターはセキュリティがされた私専用のエレベーターだ。誰も入っては来ないよ」
 吉羅はさらりと言うと、香穂子を連れてCEO室に入った。
「そこに座って待っていてくれたまえ。秘書に言ってお茶を出させる。君の好きなケーキも買ってこさせよう」
「…有り難うございます…」
 吉羅の好意を素直には受け入れることが難しい。
 あれだけのことをされたのだから仕方がないと感じながらも、礼儀を欠くのが嫌で社交辞令のようなことを言ってしまう。
 直ぐに秘書が、香穂子の好きなハーブティーを淹れてきてくれた。
 これで少しは落ち着くだろう。
 香穂子は俯いたままでハーブティーを口にする。
 カモミールの穏やかな香りが、少しだけこころをほぐしてくれた。
 吉羅をちらりと見る。
 すると書類を熱心に見ている姿が視界に入った。
 真剣に仕事に取組む吉羅を見つめながら、香穂子はどうしようもないほどにときめくのを感じていた。



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