*嘘恋*

12


 吉羅を見つめているだけでも楽しいが、そうすれば恋心が暴露する。
 香穂子は、楽譜に集中することにした。
 ちょうどお茶の時間になった頃、秘書がチョコレートケーキと紅茶を持ってきてくれた。
「どうぞ。少しは休憩されて下さいね」
「有り難うございます」
 香穂子が微笑むと、秘書も穏やかな笑みを浮かべてくれた。
 吉羅の秘書のイメージは、若くてよく出来る美人な女性だが、実際には中年の穏やかな女性だ。だが彼女もまた、吉羅にあっていると思った。
「CEOも仕事を中断されてコーヒーをいかがですか? 気分転換になりますよ」
「そうだね。頂こうか」
 吉羅は仕事の手を止めると、香穂子をちらりと見た。
「定時を少し出たところで今日は帰れるはずだ。済まないが待ってくれていたまえ」
 吉羅はさらりとごく当たり前のように言う。
 それが少しだけ腹立たしい。
 だが逃げられないのも解ってはいる。香穂子は感情のない声を出した。
「…解りました…」
 秘書が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれ、吉羅はそれをブラックで飲む。
「吉羅さんはケーキは召し上がらないんですか?」
「私は甘いものが苦手なんだよ…」
「イメージ通りですね」
「そうかね」
 吉羅は苦笑いをすると、コーヒーにまた口をつけた。
「吉羅さん…、どうしてこうして私を連れてきたんですか?」
「君を目の届く位置に置くためだ」
「私はあなたの所有物ではありません。…だって、あなたは…、婚約者ふりをするだけで良いと言ったに過ぎないもの」
「偽者とはいえ、君には婚約者の役を頼んだんだ。他の男と噂を立てられたりしたら困るからね。私の婚約者としてそれは許されないだろう」
 吉羅は香穂子を牽制するように言うと、ゆっくりと近付いてきた。
 その存在感に圧倒されてしまう。
 吉羅は香穂子を威嚇するように見つめた後で、軽く唇を奪ってきた。
 触れるだけのキスは、まるで甘さだけを吸い上げてしまうかのようなものだった。
 吉羅は香穂子から離れながら、薄く微笑む。
「充分に甘味は堪能させて貰った。私のスウィーツはこれで充分だよ」
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子から離れる。
 そのままのんびりと離れると、再び自分の机に向かった。
 触れるだけの甘い甘いキス。
 本当に極上な甘味よりも香穂子を幸せにする。同時に、何処か切ない余韻を漂わせていた。
 チョコレートケーキを食してみる。
 すると何処かビターのような気がした。

 香穂子が楽譜に夢中になっている間に、吉羅は仕事を仕上げたようで、香穂子に声を掛けてきた。
「仕事は済んだ。行くぞ」
「あ、は、はい」
 香穂子が慌てて楽譜を片付けている間、吉羅は静かに待っていてくれる。
「お待たせしました」
「では行くか」
 吉羅は香穂子の手を握り締めると、駐車場へと直通のエレベーターへと乗り込んだ。
 吉羅は、香穂子を逃がさないとばかりに、しっかりと手を握り締めてくる。
 その力の心地好さに、香穂子は思わす握り返していた。

 吉羅と車に乗り込み、香穂子の実家がある横浜方面へと向かう。
「香穂子、私の婚約者のふりをしている以上は、他の男と付き合うことは許されない。いいね。今日、君と一緒にいた男とは近付くな。話すぐらいは構わないが、誤解を招くような行動は慎みたまえ」
 吉羅は淡々と命令しているように聞こえる。
 吉羅はきっと知らない。
 他の男性に目移りすることが出来ないぐらいに、吉羅に恋をしていることを。
 付き合うことなんて、今の気持ちを考えると、有り得なかった。
「…吉羅さん…、なるべく努力はします。だけど…ひとのこころはどうなるかは解らないですから」
 香穂子の言葉に、吉羅は僅かに眉を上げた。

 吉羅が連れてきてくれたのは、外資系高級ホテルに入っているレストラン。
 かなりグレードが高いのは勿論、横浜の夜景が最高に見渡せるロケーションだ。
 勿論、オーシャンビューのテーブルに案内されて、香穂子は吉羅と向かい合わせに腰をは下ろす。
 食事をしながら、他愛ない話をする。
 この時間がいつまでも続けば良いのにと、思わずにはいられなかった。
 食事が終わり、デザートが出る前に、吉羅がジュエリーボックスを香穂子に差し出してきた。
「これは…?」
「…私の婚約者のふりをするのに必要だろう? 使いたまえ」
「…あ、あの指環はなくても大丈夫かと…」
 目の前にエンゲージリングがあるかと思うと、妙に緊張をしてしまう。
「指環はあったことに越したことはない。あらぬ憶測を与えたくはないからね」
 吉羅はまるで何でもないもののように、玩具を与えるかのように、香穂子にジュエリーボックスを差し出す。
「…受け取って欲しい…というよりは、受け取ることが君の義務だ。香穂子」
 吉羅は愛など全くないような声で、いかにも義務という形で言う。
 目眩を覚えそうだ。
 吉羅がこのような男であることを、香穂子には全く愛情がないということを、すっかり忘れていた。
 幻影を見ていたのかもしれない。
 週末はこの上なく優しかったから。
 香穂子が手を出さないでいると、吉羅は明らかに不満げなまなざしを向けて来る。
「受け取るんだ」
 半ば命令口調で言うと、吉羅は香穂子の左手を取った。
 吉羅に手を取られるだけで、香穂子は鼓動をおかしくさせる。
 触れられるだけで、どうしてこんなにも苦しくてなるのだろうか。
 じっとしていると、吉羅はジュエリーボックスを開けて、エンゲージリングをはめてきた。
 エンゲージリングを見るなり、香穂子はドキリとする。
 とてもでないが、婚約者のふりをするには余りにも素晴らしく豪華なリングだった。
 気品が溢れた美しいリングは、香穂子の指に綺麗に収まる。
「こんな豪華なリング出来ません…」
「私の婚約者を演じて貰うのだからね。変なリングは着けては貰いたくないんだよ」
「だからといって…」
 これが本当の意味でのエンゲージリングならば、これほどまでに嬉しいことはなかったのに、やはりこうして偽物の前提でプレゼントをされてしまうと、凹んでしまう。
「これは母のエンゲージリングをリフォームしたものだから、心配しなくても良い」
「それこそ大事なものじゃないですか!」
 吉羅の母親が持っていたエンゲージリングだなんて、ロマンティックだが、余りにも大切過ぎて、逆に受け取ることなんて出来やしない。
 吉羅はそのあたりをちゃんと考えているのだろうか。
 香穂子は、吉羅への恋心が熱い故に、今直ぐ泣きたくなってしまう。
 だがそれは許されないことだ。
 吉羅は、戸惑いながらもリングをはめる香穂子を、監視するように見つめている。
「 …これで君にちょっかいを出すような無謀なことをする男はいなくなるだろう」
 吉羅の覚め過ぎているのに、何処か嫉妬が滲んだ艶のある声に、香穂子はときめきを覚える。
 そうなのだ。
 もうどうしようもないほどに吉羅を愛している。
 この想いは誰にも止めることは出来やしないのだ。
 香穂子は吉羅がはめてくれたリングを見つめると、穏やかな気持ちになっていくのに気付く。
「…有り難うございます…。婚約者のふりをする間は、大切にします。だけど、ヴァイオリニスト日野香穂子としては、このリングは着けません。あなたとこうして逢って、婚約者のふりをする時だけは…」
 そこまで言ったところで、吉羅に威嚇されるように手を握られる。
「…リングはずっと着けていてもらう」
 吉羅の言葉に恐怖よりもときめきを感じた。



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