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「今日のようなことが起こっては、私も困るからね。こういうことは余りないことに越したことはない」 吉羅は香穂子を威嚇するように呟くと、じっと見つめてくる。 「…今日はただ伴奏をして下さる方と初めてお目にかかって、打ち合わせをしたに過ぎないんです。何でもありません…」 香穂子はキッパリと言う。 そう。何も起こるはずはないのだ。 吉羅にこんなにも恋をしているのだから。 吉羅以外の男と、恋をするなんて有り得ない。 香穂子は切なく思う。 「…吉羅さん、私はちゃんと契約は守るつもりでいますから」 香穂子がキッパリと力強く言い切っても、吉羅は信じてはくれないようだ。 そんなふしだらな女じゃない。 キスだって吉羅とが初めてだったのだから。 そのあたりを吉羅はよく理解してはくれていない。 信じてはくれないのだ。いつも。 泣きそうになって、香穂子は立ち上がると、パウダールームへと向かった。 ここなら少しは涙ぐんでも平気だ。 パウダールームに誰もいないことを確認してから、香穂子はそっと涙ぐんだ。 鼻水が出てしまって苦笑いを浮かべたが、それは致し方がなかった。 普段なら、こんなことで泣いたりはしない。 けれども、吉羅を好きになり過ぎて、ナイーブになってしまっているようだった。 目眩を起こしてしまいそうなぐらいに気分が悪い。 きっと精神的な部分が大きいのではないかと、香穂子は思った。 ふらふらして潤んだ瞳のままでパウダールームを出ると、前をよく見ていなかったせいで背の高い男とぶつかってしまった。 「…ごめんなさい…前をよく見ていなくて…」 そこまで言ったところで、強く腕を掴まれる。 驚いて顔を上げると、吉羅があからさまに不快な表情を浮かべていた。 「…帰るぞ」 吉羅の声は完璧に怒っている。 こんなに鋭くも激しい吉羅を見るのは初めてなのかもしれない。 吉羅は半ば強引に香穂子の腕を引っ張ると、そのまま引き摺るように駐車場へと連れていく。 不機嫌な沈黙のままで車に乗せられると、吉羅はいきなり抱き締めてきた。 焦る暇もなく、今度は唇を重ねられる。 まるで本当に愛し合っている恋人同士のように、深く激しい。 吉羅は、乱暴にも口腔内を愛撫し、唇は腫れ上がってしまうまで吸い上げてくる。 これぞ情熱。 そう感じずにはいられないほどの迸る欲情に、香穂子自信も激しく酔ってしまいそうだった。 「…吉羅さん…」 唇を放された後、最早、立つことが出来ないのではないかと思うほどに、激しいキスだった。 吉羅は親指で、ゾクリとするようなリズムで、フェイスラインをなぞってくる。 「…そんな瞳で男を見るものじゃない…。誘っているようにしか見えないからね。私は婚約者には、貞淑を求める。今後一切、私以外の男の前では、そんな瞳をするな」 吉羅は釘を刺すように言うと、ステアリングを持ち、車を発車させる。 吉羅はただのあばずれだとしか思ってはいないのだろう。 それが悔しい。 吉羅のように異性経験は豊富ではないというのに。 「…私はあなたのように、異性では誰彼構わないというわけではありません。気に入らなければ、私以外の 女性を婚約者として雇えば良いんです」 悔しくてついキツい口調になる。 信用して貰えないのならば、それだけのことだ。 「君が適任なのは間違いはない。一番の理由は、君が私に本気にならないことだよ。あわよくば私の妻になれるかもとう幻想を、君は抱かないからね」 吉羅はさらりと言いながら、車をゆっくりと走らせる。 本当は、誰よりも本気になっていると知ったら、吉羅は直ぐにでも香穂子を見限るだろう。 だから隠さなければならない。 この想いは。 そう考えると、また頭がくらくらしてきた。 軽い貧血なのたろう。 これだけ様々なことが起こってしまうと、香穂子もふらふらになる。 「香穂子、具合が悪いようだが大丈夫かね?」 「大丈夫です。後は家に帰るだけですから…」 「少し休んでから帰ったほうが良いだろう。うちが近い。休んでいきなさい」 吉羅の家で休む? そんなことは有り得ないと思いながらも、逆らうことは出来ない。 「吉羅さん、うちに帰るまでは持ちそうですから」 「休憩してから帰ったほうが良い。直ぐだ」 吉羅は有無言わせないとばかりの口調で言っていたが、香穂子は半ば焦っていた。 危険過ぎる。 吉羅のテリトリーに向かうなんて。 だが逃がさないとばかりに手を握り締められてしまい、抵抗なんて出来るはずもなかった。 吉羅は、自宅がある摩天楼の一角に車を走らせた。 駐車場に車を置き、そのまま香穂子の手を繋いで自室へと向かう。 セレブリティばかりが住んでいるせいか、セキュリティが備え付けられていた。 吉羅に部屋まで連れていかれる。 「ここで少し休むと良い。1時間ほどしたら送っていく」 「有り難うございます…」 吉羅は、瀟洒なソファを横になりやすいように整えてくれて、そこに座るように促してくれる。 香穂子は腰を下ろしても、なかなか落ち着くことが出来なかった。 「大丈夫かね?」 「本当に平気なんです。だから少し休んだら、お暇します」 香穂子は静かに言うと、吉羅の顔を見なかった。 「顔色が優れないようだから、余り無理はするんじゃない」 「…有り難うございます…。だけど無理しているわけではないですから…」 香穂子が立ち上がろうとすると、吉羅がいきなり制してくる。 「自分の躰のことを考えてみたまえ! 君はいつも大事にはしない」 「自分の躰は自分が一番解っています。吉羅さん、やっぱり、他の女性に婚約者役を頼まれたらいかがですか?」 香穂子が苦しさを滲ませながら呟くと、吉羅はいきなり唇を重ねてきた。 まるでこれ以上は喋らせないとばかりに。 「…吉羅さ…ん…」 唇を離された後、吉羅は香穂子を抱き寄せる。 「…私は…、君以外の女性に偽者の婚約者をして貰うつもりはない」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子の頬を両手で包み込む。 「契約はちゃんと遂行して貰う。いいね」 吉羅は抱き締めながらも、香穂子に冷たい視線を向けてくる。 それが痛い。 「君には今まで以上に貞淑さを要求する。契約の間は、他の男には色目を使うな。人目がある場所でふたりきりで逢ってはならない。必ず誰かが同席した時のみだ」 吉羅のあからさまな締め付けに、香穂子はキリリと睨み付けるしかない。 「そんなの横暴です! あなたは他の女性とお楽しみだというのに、他の男のひとと私は一緒にいることすら許されないんですか!?私はあなたの所有物ではない…!」 香穂子がわざと逆らうような口調で言い、吉羅を睨み付ける。 吉羅は一瞬瞳に恐ろしいほどに暗い陰を落とすと、香穂子に噛み付くようなキスをしてきた。 「…うっ…!」 呼吸すらもコントロールされているような気がする。 唇が切れて血の味がするのに、どうしてキスを止めて欲しくないのだろうか。 痛みが滲んでどうしようもない。 香穂子が涙を零すと、吉羅が優しいタッチのキスに変えた。 柔らかでしなやかなキスは、香穂子のこころを支配する。 ようやく唇を離されると、吉羅は香穂子を抱き締めてきた。 躰が熱くて、このままどうして良いのかが解らない。 「…君のその瞳は罪深い…。私を狂わせる…」 吉羅は情熱的にくぐもった声で囁くと、香穂子に甘く熱いキスを浴びせてくる。 恋情はもう止められなかった。 |