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最後のライトを消すのは、拍手が終わってからにして欲しい。 あのひとに想いを伝えられる最後のステージだから。 顔を上げるのが怖くて、上げられない。 あのひとの横にいるのは、誰よりもあのひとが愛しているひと。 もう私はあの場所にいることが出来ない。 だから、この音で心だけを受け止めて欲しい。 お返しはいらないから。 ヴァイオリンを学ぶために、ウィーン、パリで修行し、数々のコンクールの優勝という名誉と、ソロコンサート開催という夢を手に入れて、香穂子は帰国した。 日本を飛び出してから三年。 久し振りに踏む母国だ。 ここには、心密かに想い続けていたあのひとがいる。 先ずは礼儀も兼ねてあのひとに挨拶に行かなければならない。 吉羅暁彦。 香穂子が初めてこころから愛した相手であり、夢中になったひとだった。 いつも夢を後押ししてくれ、悩みがあるとさり気なく気遣ってくれたひとだった。 恋人関係になることはなかったが、ずっと大好きなひとだ。 今でも愛している。 あのひとは愛してくれているかは、解らないけれども。 毎週のように一緒に出掛けても付き合ってはいないと言われたし、何よりも「有名ヴァイオリニストになれば 男女の付き合いをしても良い」とはぐらかされた。 こうして、マスコミにも取り上げられるヴァイオリニストになって帰ってきた。 だから今度こそ、真剣に考えてくれるのだろうかと思ってしまう。 吉羅暁彦だけを思ってずっと生きて来た。 だからこそ最初に訪ねるのは、星奏学院と決めていた。 高校を卒業してまる三年。 もう何処にも香穂子が知っている後輩はいない。 声を掛けることが出来るのは、リリだけだ。 「リリ、こんにちは。帰って来たよ!」 明るい声で香穂子が言うと、リリが嬉しそうにひょっこりと顔を出した。 「日野香穂子! おかえりなのだ!」 「ただいま。帰ってきたよ。これから理事長のところに行くところなんだ」 不意にリリの表情が曇る。 「…そうなのか…。吉羅暁彦は…」 口ごもるリリに、香穂子は不安になる。胸騒ぎがして、喉がからからになった。 「ね、リリ、理事長に何かあったの!?」 問い詰めても、リリは香穂子と目を合わせようとしない。吉羅に何かあればどうして良いか分からなくなる。 香穂子は半分泣きそうになりながら、リリを見つめた。 「…吉羅暁彦に何かあったのではない…。日野香穂子…落ち着いて聞け。吉羅暁彦は結婚するんだ…。この間、その相手をここに連れてきたのだ…。我輩だけはお前の気持ちを解っていたから…、複雑だったのだ…」 リリは目を合わせないままで、気まずい雰囲気で呟く。 「…そうだったんだ…。そうだよね…。うん…。だって理事長は素敵だし…、いつまでも独身というわけにはいかないもの…ね…」 自分で話しておいて、香穂子の瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。 「吉羅さんにもとうとう相応しいひとが出来たんだね?」 「…ああ。先ほども理事長室に来ていた。音楽に縁のない者だ」 「そっか」 香穂子は洟を啜りながら、リリに微笑みかける。 「有り難うね、リリ。リリがこうして教えてくれたから、私…理事長に迷惑を掛けずにすんだよ。有り難う」 「日野香穂子ーっ!」 今度はリリが泣きそうな顔をするものだから、香穂子はまた涙ぐんでしまう。 「大丈夫だよ。あ、教えてくれたお礼にヴァイオリンを弾くよ」 香穂子はなるべく明るく振る舞うと、リリのためだけにヴァイオリンを構える。 「カノンで良いかな? あれ大好きなんだ」 香穂子はこころを込めてヴァイオリンを奏で始めた。 清らかな調べに、リリは楽しんでくれているようだ。 香穂子はそれだけが救いだった。 ようやく吉羅との関係を新しく進められるかもしれないと考えていたのに、永遠に閉ざされてしまった。 だからもう逢わないほうが良いかもしれない。 「…そこにいるのは、日野君かね?」 直ぐ近くに吉羅の声がして、香穂子は慌てて姿を隠した。 逢いたくない。 少なくとも今は。 他のひとのものになる吉羅を見てしまえば、切なくて堪らなくなるから。 香穂子がリリの像の陰に姿を隠すのを、リリは不憫そうに見つめる。 香穂子の想いを感じ取ったからか、リリは吉羅の前に立ちはだかるように現れた。 「吉羅暁彦、我輩に用なのか?」 「アルジェントリリか…。お前、日野君を見なかったか?」 「日野香穂子なら…見てはいないっ!」 「…そうか。彼女のヴァイオリンの音色が聞こえたような気がしたんだが…」 吉羅はふとノスタルジーを滲ませると、リリをもう一度見た。 「本気にいなかったのかね?」 「い、いないものを、いるとは言えん!」 リリは何度も頭を横に振り、吉羅を香穂子にちかづけないようにしてくれた。 「解った。邪魔をしたね、アルジェントリリ」 吉羅の気配が遠くになるのを感じながら、香穂子は溜め息を吐いた。 「有り難うリリ」 「…あれで良かったのか?」 「うん。良かったんだよ」 香穂子は切ない寂しさを感じながら、静かに頷くことしか出来なかった。 「あれ? 日野ちゃん?」 「もしかして日野か?」 懐かしいふたりの声に振り返ると、そこには火原と金澤が立っていた。 懐かしくも温かい人々だ。 「金澤先生、火原先輩!」 「久し振りだね! 日野ちゃん! 活躍は聞いているよ! 凄いね!」 明るい火原の称賛に、香穂子は恥ずかしくて顔をほんのりと赤らめる。 「有り難うございます」 「本当に頑張っているよな、お前さんは」 金澤も目を細めるように見つめてくれる。 「火原先輩はまたオケ部の指導ですか?」 「いいや、教生に来ているんだよ。で、金やんが指導教官」 「そうなんですか!」 香穂子は頷きながら、妙に堅苦しい火原の格好を見つめた。 予鈴のチャイムが鳴り響く。 「あ、やばい! 授業に行かなきゃ! 日野ちゃん、また!」 「日野、また遊びに来い。待っているからな」 「はい、有り難うございます」 ふたりは教室へと早足で向かっている。その後ろ姿を見つめながら、香穂子は小さく溜め息を吐いた。 ここにいてもこれ以上用はない。 香穂子はリリに「帰るね」と一言声を掛けると、学院の校門を静かに潜る。 もう一度ここに来る勇気は、今の香穂子にはなかった。 学院から実家は直ぐで、香穂子はそこまでとぼとぼと歩いていく。 歩いているうちに涙が零れ落ちてきた。 吉羅を諦めなければならないなんて、思っても見なかった。 香穂子は目を真っ赤に腫らしながら、家へと向かった。 香穂子の凱旋帰国を祝うのを兼ねた、音楽関係のパーティが開催されることになった。 余り乗り気ではなかったが、折角、開いてくれたパーティであったから、出るしかなかった。 香穂子は挨拶を一通り終えた後で、静かに目立たないように会場の隅を陣取る。 不意に華やいだざわめきが会場を満たしていく。 吉羅とエスコートされた気品溢れる美しい女性が、会場に姿を現した。 見てはいけないのに、つい見てしまう。 「まあ吉羅様と婚約者の方ですわ。本当によくお似合いですね」 様々なところで羨望の声が聞こえて、香穂子は胸がキリキリと痛んだ。 吉羅にこのまま見つからないように、香穂子はなるべく小さくなっている。 このまま見つからなければ良いとすら思っていた。 「…日野君! 日野君だろ?」 背後から吉羅の声が聞こえたが、香穂子は振り返られなかった。 |