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大好きなひとが直ぐ後ろにいる。 振り返りたくても、振り返れない。そうしてしまうと泣きそうになるから。 「日野君?」 吉羅が怪訝そうに名前を呼ぶものだから、香穂子は振り返らなければならなくなる。 「…理事長、お久し振りです」 顔をまともに見ることが出来なくて、香穂子は俯き加減で呟いた。 「久し振りだね。君の活躍は耳に入ってきているよ。よく頑張っているね」 吉羅の艶やかな声が真っ直ぐ下りてきて、香穂子はその魅力を抗うことが出来なくて、つい顔を上げてしまう。 やはり記憶のなかよりも艶やかで魅力的な吉羅が、視界に入ってきた。同時に避けることは出来ないとばかりに、吉羅の美しい婚約者が傍らに寄り添っているのが見えた。 こころが麻痺してしまうのではないかと思うほどに、辛い光景が香穂子の瞳に映る。 吉羅は香穂子に落ち着いたまなざしをゆっくりと向けて来た。 「…日野君、先日、学院に来ていたようだね? ヴァイオリンの音色で解ったのだがね」 どうして挨拶に来なかったのだと責められているようで、ほんのりと胸が痛くなる。 「すみませんでした。ご挨拶には改めて伺うと思っていたんですよ。きちんと挨拶をしたのは、リリだけですし…」 「…アルジェント・リリだけ…ね」 吉羅は、やんわりと香穂子を責めるようなまなざしを向けて来た。 「あの、理事長がご婚約されたと伺いました。おめでとうございます」 香穂子は深々と頭を下げて、大袈裟なぐらいに祝う姿勢を取る。 「有り難う」 その一言で、総てが肯定されてしまったと、香穂子は感じる。 顔をまともに見られやしない。 吉羅の顔を見てしまうと、恋心が溢れて泣きたくなってしまうから。 望美は切ない涙を飲み込むと、ごまかすように笑った。 「…失礼しますね。他にご挨拶をしなければなりませんから」 香穂子はなるべく吉羅と目を合わさないようにして言うと、その場を辞した。 これで良いのだ。 鼓動がおかしくなってしまい、喉がからからに渇いてしまう。 香穂子はその場にいられなくて、化粧室に駆け込んだ。 鏡に映る自分を見るなり、なんて醜いのだろうかと、思ってしまう。 それに比べて、吉羅の横にいる女性はとても綺麗で堂々としていた。キラキラと輝いていたといっても良い。 “有名ヴァイオリニストになれば、男女の付き合いを考えても良い”。 あれはきっと、吉羅が断るための口実に過ぎなかったのだろうと、思う。 まだまだ子供にストレートに“恋愛対象外”と言ってしまえば、傷つくとでも思ったのだろう。 本当は先ほどの配慮ほど傷つくものはないと、香穂子は思う。 きっと吉羅はそれを解ってはいないだろう。 香穂子がどれほど吉羅のことを一途に好きだなんて、ひとかけらも解ってはいないだろうから。 香穂子は小さく溜め息を吐くと、自分が情けなくて泣けてきた。 こんなにもちっぽけで、まだ駆け出しのヴァイオリニストを、あの吉羅暁彦が相手にするわけなど、最初からないのだから。 香穂子は洟を啜り上げると、鏡の前で上手く笑えるように努力をする。 だが、出来なかった。 何とか化粧を直して、泣いた痕跡を消した後で、香穂子はようやく化粧室から出た。 会場に戻ると、外国人も多い華やかな音楽関係のパーティということで、ウィンナワルツが踊られていた。 吉羅が婚約者と一緒に踊っているのが見える。 香穂子にはもう誰もいなくなったのだ。 不意に手が差し延べられて顔を上げると、そこには月森の姿があった。 「日野、折角だから踊らないか?」 気分転換に月森と踊るのも良いかもしれない。 「はい、喜んで」 香穂子は月森の手を取ると、ウィンナワルツを踊り始めた。 何故か背中に厳しい視線を感じる。 チクチクと痛い視線に、香穂子は息を詰めた。 「どうした、日野」 「何でもないよ。ちょっとチクチクしたものを感じただけで…」 「理事長…吉羅さんか…」 「…え?」 月森の言葉に、香穂子は驚いて顔を上げる。婚約者がいる吉羅がそんな視線を送る筈などないのに。 「俺を睨んでいるような気がするけれど…」 「気のせいじゃないかな。吉羅さんが、月森くんを睨むはずないじゃない。あるとしたら私のほうかなあ。大した実力もないのに、ウィンナワルツを踊るんじゃないって、思っているんだよ。きっと」 香穂子は自嘲気味に笑うと、なるべく吉羅を意識しないようにする。 「…いいや、多分違う。何だか刺々しいからね。かなり」 月森は溜め息を吐いた後で、香穂子に微笑みかけた。 「ふたりでのリサイタル、ソロリサイタル、共に頑張ろう」 「勿論。月森くんには色々と音楽面で刺激を貰っているから、凄く感謝しているんだよ」 「俺もね」 曲が変わり、ふたりはウィンナワルツの輪から外れる。 「少し休憩しようか」 「そうだね」 香穂子は溜め息を吐きながら、ウィンナワルツをぼんやりと見つめる。 吉羅は既に踊ってはおらず、婚約者だけがパートナーを変えて踊っていた。 本気に美しいひとだ。 ウィンナワルツがよく似合う。 キラキラと輝くスワロフスキーのシャンデリアの光が、誰よりも似合うひとだ。 香穂子は溜め息を小さく吐くと、ワルツを踊る輪から背を向けたくなった。 吉羅が彼女を生涯の伴侶に選ぶのも当然のように思える。 それ程まで美しいのだ。 所詮、吉羅のようなステイタスの高い男は、自分のいる世界に似合う女しか選ばないのだ。 香穂子はそれに気付かなかっただけなのだ。今まで。 不意に視界が陰ったような気がして、香穂子は顔を上げる。 そこにはクールなまなざしをした吉羅が立っていた。 「踊らないかね、日野君」 「…あ、あの…」 婚約者が他の男と踊っているから、嫉妬のせいで踊ろうとしているのだろうか。 それならば相手になるのは余りに切ない。 「婚約者の方に悪いですし…」 笑顔でやんわりと断ろうとしたところで、吉羅に腕を掴まれる。 「彼女は関係ない。私は君と踊りたいんだよ。ワルツを。それとも、君と踊るには、月森君の許可を得なければならないのかね?」 「いいえ、それはないです」 香穂子が戸惑いながら答えると、吉羅は静かに頷く。 「だったら、踊ろう…」 吉羅は香穂子の腕を取ったままで、ウィンナワルツの輪に入っていく。 香穂子がいくら戸惑いを見せても、吉羅は構わないとばかりに優雅に踊る。 「君にちゃんとお祝いを言わなかったからね。数々のコンクール優勝、そしてリサイタル開催、おめでとう」 「…有り難うございます」 最も祝って貰いたいひとに言われて、香穂子のこころは甘く疼く。 だが、もう香穂子が欲しいものは永遠にくれないのだ。それが辛くてしょうがない。 「先日、学院に来ていたんだね。金澤さんから聞いたよ。どうして挨拶に来てくれなかったのかね?」 「リリに挨拶をして、それでリリのためにヴァイオリンを弾いていたら時間がなくなってしまって。金澤先生と火原 先輩に逢ったのは偶然なんです。リリと話していたところに、おふたりが現れただけです」 「そうかね」 吉羅が香穂子を攻撃するかのような鋭いまなざしで見つめてくる。それが息苦しくてしょうがなかった。 「理事長はお忙しいでしょうし、ご迷惑だろうと思いましたから…」 「そんなことはない。私は君が報告に来てくれるのを待っていたよ…」 そんなことは言わないで欲しい。 本気にしてしまうから。 目の前の相手は、恋を始めた時から、手の届かない相手だったのだから。 |