*約束*


 ウィンナワルツの音楽が変わり、誰もがパートナーチェンジを行なう。
 香穂子も吉羅がそうするとばかり思っていた。だが、その気配はいっこうにないと言っても良かった。
「理事長、パートナーチェンジですよ。婚約者の方もワルツを終わられたようですし、お待ちのようですよ」
 香穂子が焦るように言って、吉羅から手を外そうとしても、逆に力強く握り締められてしまった。
「あ、あのっ!?」
 いくらこちらが慌てたところで、吉羅暁彦が応じないのは、香穂子にもよく解っている。
 だが、吉羅の婚約者から射るようなまなざしを向けられてしまい、香穂子はいたたまれなくなった。
 じっとこちらを見つめる婚約者の左手薬指には、吉羅が送ったであろうダイヤモンドの指輪が輝いて、香穂子を弾いていた。
 堪らない。
 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅を見上げた。
 一生、手に入らないのは解っている相手に固執をされてしまったら、本当に泣きたくなる。
 香穂子は吉羅をまともに見ることが出来なくて、視線を伏せた。
「…離して下さい、理事長…」
「…離したくないと言ったらどうするかね」
「婚約者の方が怒ります」
「怒らないよ、彼女は」
 まるで自分の婚約者がよく出来ていると言いたげなようで、香穂子の気持ちは余計に沈んでしまう。
「…それとも、月森君が嫌がるからかね」
 吉羅の声が日頃よりも冷たくて刺々しくなっている。それがまた泣きたくなる。
「月森君は関係ありません」
「だったら問題はあるまい」
「問題ですよ。婚約者のことを考えて下さい」
 考えないで欲しいと思う本心とは裏腹に、香穂子が厳しく言うと、吉羅はキツい視線を投げてきた。
「君はそんなことを考えなくて良いんだ」
「だけど…」
「黙りなさい」
 吉羅はピシャリと言うと、香穂子の手を強く握り締めた。
 こんなにも近くにいるのに。
 こんなにも力強く手を握られているのに。
 だが、決して手の届かないひとだ。
「日野君、また、高校時代のように、駅前通りや臨海公園でヴァイオリンを練習する予定なのかね?」
「はい。うちは防音ではありませんから。平日はスタジオで練習をするんですが、お休みの日は開放的な気分で弾きたいんですよ」
「…そうか。平日なら学院の施設を貸すよ。君は卒業生だから、みっちり使って良いんだよ」
「有り難うございます。ですが、スタジオの予約は既にしていますから。ご好意は感謝します」
 香穂子は胸が痛むのを感じながら、吉羅にやんわりと断りを入れた。
 また曲が変わる。
 なのに吉羅はまだ香穂子を離そうとはしない。
 とうとう痺れを切らしてしまったのが、吉羅の婚約者がゆったりと近付いてきた。
「暁彦さん」
「理事長、有り難うございました」
 香穂子は慇懃に礼を言うと、吉羅から離れた。
 ふたりの様子を見るなんて我慢出来なかった。
 ふたりから離れた後、香穂子は視線を送る。
 仲睦まじそうに話すふたりを見ていると、香穂子は嗚咽に似たものが込み上げてくるのを感じた。
「日野、理事長と随分と長く踊っていたね」
「報告をしていただけだよ。理事長が興味があるのはそれだけだよ」
「…そうだろうか。俺と君が踊っている時の理事長は、まるで嫉妬しているようだったよ」
 月森の言葉に、そんなことはあり得ないと香穂子は思う。
 月森の勘違いだ。恐らくは。
「勘違いだよ、月森君の。理事長が私に嫉妬するわけがないじゃない」
 香穂子は自嘲気味な笑みを浮かべながら、淡々と言う。
「…俺にはそうは思えない。だが理事長も婚約者がいるのだから、あんな目で君を見るのは良くないのかもしれない」
「勘違いだよ」
 香穂子はやんわりと月森を諭すように言うと、壁に凭れた。
 吉羅は婚約者を連れて、挨拶まわりをしている。
 先ほどの力強く手を握られたのは、気紛れなのだろう。
 香穂子は吉羅たちから視線を外すと、唇を噛み締めた。

 帰国して初めての休みは、やはり駅前通りでヴァイオリンを奏でることにした。
 高校生の頃に沢山奏でた想い出の場所だ。
 土曜日になると毎週のように理事長に会い、食事やコンサートを共にしたものだ。
 それも今や遠くて懐かしい想い出だ。
 香穂子にとっては大切で堪らない想い出になってしまったが。
 ヴァイオリンで何曲も奏でて、清々しい気分になる。
 こうして青空の下で奏でるのも久し振りだからだ。
 香穂子は休憩がてらに近くのスタンドで生ジュースを買い、飲み干していた。
 不意に耳馴染みが良いクラクションが聞こえて、香穂子は躰を硬くさせた。
 吉羅だ。
 吉羅暁彦しか考えられない。
 予想通りに、フェラーリがこちらにやってきて、香穂子の前で停まった。
「日野君、練習かね」
「気分転換です。こうやってヴァイオリンを奏でていると、気持ちが良いですから」
「そうだね」
「理事長はお仕事ですか? ご苦労様です」
 香穂子は礼儀正しく無難なことを言うと、フェラーリから離れようとした。
「日野君、久し振りにランチでも一緒にどうかね? 以前のように」
吉羅からの誘い。
 本当は受けたいが、一緒にいればいるほど辛くなるのは解っていたから、自分のこころを守るためには受けられない。
「…あの…、今日は遠慮させて…」
「君は私のところに報告に来なかった。だから、その報告を聞きたいと思っていたのだが、駄目なのかね?」
 吉羅は香穂子の腕を我がもの顔で掴むと、行かせないとばかりに力を込めた。
「…初めてふたりで行った築地の店に行かないか?」
 吉羅の瞳を見ていると、断れなくなってしまう。
 泣きそうになる。
 着いていけば、更にこころがザックリと傷付くことは解っていた。
 なのに行かずにはいられない気持ちにさせられる。
 香穂子がためらっていると、吉羅は指を更に食い込ませてきた。
「…解りました。行きます」
 吉羅がホッとしたような笑みを少年のように浮かべるものだから、香穂子の恋心は余計にくすぐられてしまう。
「…吉羅さん…」
 吉羅は助手席のドアを開けたが、流石にこの場所は断らなければならない。
 助手席は大切な場所だ。
 もうここはリザーブされているのだから、自分は座ることは出来ない。
「後部座席に座ります」
 香穂子はそれだけを言うと、後部座席のドアを丁寧に開け、そこに腰を下ろした。
 座ってしまえば吉羅も諦めたらしく、静かに車を出した。
「日野君、どうしてここに座らなかったんだね?」
「助手席は特別な席なんですよ。だから、そこは婚約者さんのために既にリザーブされているんです。だから 私は後部座席に座ります。私が彼女の立場なら、きっと良い想いはしないと思いますから。だからここが一番あっているんですよ」
「…日野君…」
 吉羅は溜め息を吐くと、さらりと髪を揺らすように首を横に振った。
「そんなことは気にしなくても構わないんだ。君は助手席に座れば良いんだ」
 吉羅はキッパリと言い切ると、車を築地に向けて走らせた。

 寿司屋の前に来ると、何もかもが懐かしくて、変わっていなくて、香穂子は思わず微笑んだ。
 吉羅とふたりで暖簾を潜ると、まるであの頃に戻ったような気がする。
 一途に吉羅を思っていた頃に。
「らっしゃいっ! あ! 日野さんじゃないの! 久し振りだね! 吉羅さんが久し振りに女の子を連れてきたと 思ったら、やっぱり君だったのか!」
 主人は明るく屈託なく言うと笑顔で迎えてくれる。
 タイムスリップした気分になっていた。



Back Top Next