*約束*


 築地の寿司屋の主人に逢うのは本当に久し振りで、香穂子は嬉しくて笑みを浮かべた。
「お久し振りです。ウィーンでずっとこちらのお寿司が恋しかったです」
「そうかい、そうかい。ほら、香穂ちゃん座った座った!」
「はい。有り難うございます」
 本当に懐かしくて嬉しい顔に、香穂子も笑みを零した。
「何にするかね? 香穂ちゃんスペシャルにしようか?」
「お任せします」
「よっしゃ!」
 主人が再会を本当に喜んでくれたお陰で、香穂子の切なさは吹き飛んだ。
「君はご主人と仲が良かったからね」
「ご主人の握るお寿司は世界一ですから、理事長」
 香穂子の言葉に、吉羅はフッと甘い笑みを浮かべた。
「…ようやく笑ったね。さっきまで何処か暗かったから心配したんだよ」
「…あ…」
 香穂子はハッとして視線を落とす。
 吉羅と婚約者のことばかりを考えていたから、思考回路が上手く回らなかった。
「…すみません…」
「まあ、良い。君の笑顔を見られたから、良しとしようか」
 吉羅は静かで落ち着いた声で言うと、フッと柔らかく笑う。
 滅多に笑わないひとではあるが、こうしてたまに温かな笑みを浮かべてくれるのが嬉しかった。
 この笑みに魂を奪われていたことを、吉羅はきっと知らないだろう。
 知っていたとしても、何とも思わないかもしれないが。
 香穂子が静かにいると、吉羅は落ち着いたまなざしで見つめてくる。
 まるで香穂子のこころごと見守ってくれるような瞳だ。
「…好きなものを食べると良い。沢山頑張った君へのご褒美だ」
「有り難うございます。こちらのお寿司をずっと食べたかったんですよ」
 香穂子は、主人のお任せにして、寿司をぱくつく。
「やっぱり美味しいよ! おじさん! 最高だよ!」
「金目はささっと炙ってあるから、岩塩をつけて食べておくれ」
「はい」
 香穂子が満面の笑みを浮かべながら寿司を食べていると、吉羅は先ほどから余り食べずに、じっと香穂子だけを見つめている。
 甘いまなざしだったから、ときめきと恥ずかしさで、香穂子は顔を真っ赤に染め上げる。
「…何かついていますか?」
「君は面白い子だと思っただけだよ。私を楽しませてくれる」
「あ、あの、その…、私は見せ物じゃないというか…」
 香穂子がしどろもどろに話すと、寿司屋の主人は目をスッと細めた。
「こんなに楽しそうな吉羅さんを見るのは、本当に久し振りなんだよ。ひとりで来て黙々と食べるか、仕事関係のひとと来るぐらいだったからね。香穂ちゃんがウィーンに留学してからは、確か、女性とは来ていないんじゃないかな」
 主人の話に、香穂子は鼓動が激しく高まるのを感じる。息が詰まる程のときめきに、どうにかなりそうだ。
 婚約者すらここには連れて来なかったのだ。
 なぜだか特別な扱いをされているような気がして、香穂子は嬉しくてしょうがない。
「香穂ちゃん、吉羅さんとは上手くいっているのかい?」
「ご主人」
 吉羅は明らかに不快感を表わすように呟くと、軽く香穂子を睨む。
 現実が戻ってくる。
 吉羅が他の女性のものになるということを。
「…ご主人、理事長はご婚約されたんですよ。だから、私たちは何でもないです。今日は、私がヴァイオリンで頑張ったご褒美にと、こちらに連れてきて下さったんですよ」
 胸が軋んでいるのに、笑顔でいなければならないのが辛い。
 吉羅の笑みが昔のように甘くて優しかったから、勘違いしていたのかもしれない。
「…そうかい…。そいつはすまなかったね、吉羅さん。ごめんね、香穂ちゃん」
「大丈夫ですよ。あ、この鯛美味しいですね! もみじおろしとポン酢がとても良いです。三年経っても、好みを覚えて下さっていたのが嬉しいです」
 香穂子は笑顔で寿司を頬張り、主人に頷いてみせる。
「本当に良い子だね、香穂ちゃん…」
 主人にしみじみと言われ、香穂子は泣きそうになっていた。
「ご主人、今度リサイタルをするんです、二回。一度目は、学院の同級生の男の子とのコラボレーションで、こちらは、バレンタインに、そしてその十日後の日曜日に、ソロでリサイタルをすることになったんです」
「へぇ! じゃあ見に行かないとね。香穂ちゃんの晴れ舞台はしっかり見ておかないとね」
「チケットを送ります」
 香穂子は笑顔で主人に呟いた後で、ちらりと吉羅を見た。
「理事長もよろしければ、チケットを送ります…。婚約者の方の分と一緒に」
「有り難う。月森君とのリサイタルをお願いする。あいにくなんだが、ソロコンサートへは行けない。その日は結婚式だからね」
「…そう、ですか…」
 吉羅の結婚式と、自分のリサイタルが重なるなんて、これ程切ないものはない。
 泣きそうになって、香穂子は堪えるように笑顔を向けた。
「…だったら、また次の時にお送りしますね」
「ああ。頼んだ」
 吉羅の言葉にこのまま飛び出して泣いてしまいたいと感じながら、何とか堪えた。
「…そうか。吉羅さんもとうとう年貢納めの時なのか…」
 主人は何処かがっかりしたように溜め息を吐いていた。
「香穂子ちゃんはボーイフレンドとかはいるのかな。いたら連れて来ると良いよ。サービスするから」
「いないですよ。そんなひとは。今はヴァイオリン漬けで、他には何も考えられませんから」
 香穂子が笑うと、主人は何処か複雑な顔をする。知っているのだ。ずっと香穂子が吉羅を好きだったことを。だからこそ、いつも静かに恋を応援してくれていたのだ。
 だが吉羅が婚約をしてしまったことで、一方的な恋も終わりを告げたのだ。だからこそ切ないのだろう。
「リサイタルの日、会場から幸せをお祈りしていますね。私にはそれぐらいしか出来ませんから」
 本当は泣き叫びたいのに、そうすることが出来ない。香穂子は感情を押し殺すように笑うと、吉羅からはなるべく視線を外した。
「おじさん、あなきゅう巻が食べたいです」
「あいよ」
 香穂子は黙々と寿司を食べ続ける。同じ年代の他の女の子と比べると、かなり大食いだとは思うが、今日はいつも以上にするすると食べられる。
 寿司でお腹がいっぱいになる頃、吉羅の携帯電話が鳴り響いた。
「はい、ああ君か。どうしたんだね? そうか…。迎えにはいけない、知人を送らなければならないから。そうだ。その後でよければ行こうか」
 吉羅が話しているのは明らかに婚約者だった。
 胸が痛過ぎて麻痺してしまう。
 ひとりで帰る方法も解っているから、香穂子はそうすることにする。電子カードにもチャージはしてあるから、それを使えば帰ることが出来るはずだ。
 吉羅が電話を終えると、携帯電話を片付ける。
「…日野君、行こうか」
「あの。私、ひとりで帰れますから、理事長は用事を済ませにいって下さい」
「君を誘ったのは私だ。だから、送っていく」
「大丈夫ですよ。だから安心してお帰りになって下さい」
 香穂子は笑顔で言った後で頭を深々と下げると、吉羅に背を向けて歩いていく。
「日野君、待ちなさい」
 吉羅は香穂子の腕を強引に取ると、引き寄せてくる。
 抗えない。
 食い込む吉羅の力に、香穂子は泣きそうになった。
「…日野君、そんなことを言わないでくれ…」
「だけど、理事長は用事があるんですよね? だから私のことは気にされないで下さい」
「…私は…、どうしても君を送りたいんだよ」
 吉羅は苦しげに呟く。
 その声が切なく響き、香穂子は頷くことしか出来なかった。



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