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吉羅の車が停めてある駐車場へと向かう。 後部座席に座ろうと思ったのに、吉羅は助手席のドアを開ける。 「座りなさい」 「だけど…」 助手席は本当に特別な意味合いを持つ席なのだ。 吉羅はそれをきっと解ってはいない。 「…その席は」 「特別な席だなんて言わせない。ただの助手席だ、日野君。それに以前は、君もこの席に座っていただろう? 随分とこの席に慣れたと、思っていたんだがね」 吉羅の視線は、断固として香穂子を後部座席には座らせないと囁いている。 香穂子は諦めの溜め息を吐くと、観念して助手席に座ることにした。 吉羅は頷くと、運転席へと座る。 車が静かに闇に紛れる。 吉羅とのドライブは大好きだったのに、今や切ない要素のひとつになってしまっていた。 近くにいればいるほど、吉羅を欲しいと思ってしまう。 近くにいればいるほど、愛してくれるのではないかという錯覚を覚えてしまう。 香穂子は白くなるまで拳を握り締めながら、躰を小さくさせる。恨めしい気分で吉羅を見つめた。 「あのお寿司屋さんに、婚約者の方を是非お連れになって下さいね。きっと美味しいって感激されますよ」 香穂子が引きつった笑みを浮かべながら言うと、吉羅の横顔は余計に険しくなる。 「…君もあの店には、ボーイフレンドを連れて行く予定なのかね」 「そんな予定はありません。カレシなんて作っている暇なんてないですし、今は本当にヴァイオリンしか考えられないですし」 ヴァイオリンしか考えられないのは嘘だ。しっかり吉羅暁彦のことだけは考えてしまっているのだ。 「私も彼女はあの店には連れて行かない。あの店で、色々と詮索をされてしまうのは、面倒だからね」 「…そうですか」 あのふたりの夫婦はとても良い夫婦だし、人のことを詮索したりはしない。 何よりもお寿司も世界で一番美味しいと、香穂子は思っている。 だが、特別なひとにはもっと特別な寿司屋があるのだろう。 吉羅が妻に相応しいと考えたひとを連れていく場所が。 そう考えるだけで、香穂子は寂しさと苦しさを感じた。 楽しいのに、楽しくない。 もっとそばにいたいのに、そばにいたくはならない。 複雑な感情がぐるぐると回り、香穂子は泣きそうになった。 「今日はご馳走さまでした。有り難うございます」 「君が満足してくれているなら私はそれで構わないがね」 「…本当にすみません。ご馳走になった上に、こうして送って頂いて」 香穂子は恐縮するように言いながら、俯いた。 「そんなに気を遣わなくて構わないんだ。以前はそんなに恐縮しなかっただろう?」 吉羅はかなり機嫌が悪い。 当然だ。 恋人のところにまっしぐらに行きたかっただろうに、誘った手前、香穂子を送らなければならなくなったのだから。 「私、降ります。やっぱり迷惑かけたくないんです」 香穂子がシートベルトを外そうとして、車の急ブレーキが掛かった。 「日野君、君は本当に何も解ってはいないね」 吉羅は苦々しい声で呟くと、いきなり香穂子を抱きすくめてきた。 「…き…ら…さんっ…」 婚約者がいるのに。 愛するひとがいるのに。 どうしてこんなにも力強い抱擁が出来るのだろうか。 息が出来なくなるぐらいに強く抱きすくめられて、香穂子は浅く喘いだ。 吉羅の艶やかなコロンの香りが鼻孔をくすぐる。 香穂子の欲望や官能を刺激する香りに、くらくらしてしまいそうになる。 こんなにも胸を騒ぐ香りを、香穂子は他に知らなかった。 結婚するのに、こんなことはしないで欲しい。こころを乱さないで欲しい。 まだ可能性があるのではないかと思ってしまうから。 香穂子は胸が軋む余りに息が出来なくなった。 吉羅は熱い吐息を漏らすと、香穂子の唇に自分の唇を強く押しつけてきた。 香穂子の総てを奪うように口づけられて、涙が零れ落ちそうになる。 叶う愛であるのならば、こんなにも嬉しいことはないのに、生憎、叶わない愛だ。 吉羅は、香穂子の口腔内に舌を差し入れると、自分の噛み痕をつけるかのように、激しく愛撫した。 「…んっ…」 唇から唾液が零れ落ちるほどに、感じてしまう。 滲んだ快楽に窒息しそうになった。 口角を甘く咬まれた時には、背筋がゾクリとした。 唇は離されて、香穂子は無意識に舌先で唇をなぞる。 ぷっくりと腫れ上がってしまい、ピリピリした痛みを感じた。 泣きたくなる。 なのに泣くことも出来ない。 「君が私に逆らうからだ。逆らうとおしおきを受けることを覚えておくんだね」 吉羅は冷たく言い放つと、香穂子の頬を親指で撫でた。 切ない甘酸っぱさがこころを満たして、香穂子は瞳に涙を貯める。 だが、泣かなかった。 吉羅の前では泣きたくはなかったから。 香穂子は洟を啜りながらも、意地を張って泣かない。 「…理事長には…、もう生涯を誓ったひとがいるじゃないですか。だから…、こんなことをしたら…」 香穂子が声を震わせて抗議をしても、吉羅はクールな表情のままだ。 「…君には関係のないことだ」 吉羅は香穂子から離れると、再びステアリングを握り締める。 車のなかの重苦しさで、香穂子は窒息しそうになった。 車は香穂子の家の前に停車する。 以前と同じように。 「有り難うございました…」 香穂子は吉羅の目を見ないままで、車から降り立った。 香穂子が車から降りると、吉羅は直ぐに発車する。 愛しい恋人のところに行くのだ。仕方がない。 香穂子は車を見送りながら、唇を噛み締めていた。 日曜日も香穂子は駅前通りでヴァイオリンの練習をする。 いよいよ明日から本格的なリハーサルが始まる。 ソロとデュエット。どちらも頑張らなければならない。 そのウォーミングアップに、ここでヴァイオリンを奏でるのはちょうど良かった。 リサイタルが終わった後も日本にいるつもりで、ウィーンの荷物は総て片付けてきた。 だが、今は戻るつもりでいる。再びアパートメントを借りなければならないし、これから忙しいだろう。 もう、吉羅のことを考えないで済むように、日本から早く離れたかった。 ヴァイオリンを夢中になって弾いた後で、拍手が聞こえる。顔を上げると、そこには吉羅暁彦がいた。 「大したものだね君は。最終セレクションで聴いた時には、相当酷いと思ったのに、今はそのことを忘れてしまうほどに上手くなっているね」 「理事長…」 吉羅が近付いてくる。 「気分転換に行かないかね」 昨日と同じようなことになれば、更にこころがおかしくなるのは目に見えている。 だから行くことは出来ない。 「…申し訳ありませんが、行けません…」 香穂子は視線を落とすと、吉羅の横を歩こうとした。 「待ちたまえ、日野君」 腕を強く掴まれて、香穂子は息を呑む。 吉羅はまるで香穂子が自分のものだと言うかのような瞳をしていた。 「…昨日のことを気にしているのかね?」 「だって…そんなことは許されるはずはないじゃないですか…。だって…吉羅さんは、婚約者がいるんですよ? 式の日程も決っているんですよ? なのにこんなことはしてはいけないんじゃないですか…」 香穂子が目を伏せると、吉羅は引き寄せてくる。 「…それを決めるのは私であって君じゃない」 吉羅は香穂子の華奢な腕を掴んだまま見つめてくる。 「君と話したいんだ…。もう少し。君と一緒にいたいんだ…」 吉羅の言葉に香穂子は胸を疼かせると、コクリと一度だけ頷いた。 |