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嘘は吐けない。 吉羅のそばにいて、もっと話をしたいというのは香穂子も同じなのだから。 香穂子の返事に吉羅はホッとしたように手を握り締めてきた。 「ふたりでよく行った海岸に行かないか? 君とゆっくりと海が見たい」 「はい。連れて行って下さい…」 「解った」 吉羅の車の助手席に乗り込むと、香穂子は浅く呼吸をする。 拒むことが出来ない程に、この男性が好きで好きでしょうがない。 嘘は吐けない。 吉羅は、想い出のなかと同じように、車を静かに出してくれた。 「海に出るのは久し振りでね。私も楽しみにしているよ」 「私も海を見るのは久し振りです。ウィーンでは、気分転換なんてする暇がないぐらいに、ヴァイオリンに没頭していましたから」 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅はフッと笑みを浮べた。 「それだけ努力をして、君はコンクール優勝を手に入れたんだ。良いことだよ」 「そうですね。有名ヴァイオリニストになるためだけに、最大限の努力をしてきましたから」 そう。 香穂子の夢は、吉羅の何気ない一言で決ったのだ。 “有名ヴァイオリニストになれば、男女の付き合いをして構わない” その一言が、香穂子をがむしゃらな努力へとつき動かしたのだ。 だが、その原因を作った一言も、今は意味がなくなってしまった。 吉羅は他の女性と結婚してしまうのだから。 「君はほんとうに短期間でよく伸びたね。アルジェントリリも喜んでいることだろう」 「そうであれば良いです」 音楽の世界への扉を開いてくれたリリには、こころから感謝しなければならない。 感謝してもしきれないのではないかと、最近では思ってしまう。 「日野君、君は、日本にいつまでいるのかね? 日本に帰国をして、本格的にこちらを拠点に活動を始めるのかね? 私としては、日本で頑張って貰いたいと思うがね」 吉羅の言葉が胸にチクリと刺さってくる。 最初はそう思っていた。 日本で活動していければ良いと。 だが、それはもう過去のことだ。 日本で活動していけば、いやがおうでも、吉羅の噂が耳に入ってくる。それだけは避けたかった。 こころの痛みが増すことが解っていたから。 「…今は…、もう一度、ウィーンで勉強をするか、パリに行くかで迷っています。演奏拠点にスイスも良いと聞いていますから、そちらに移住することになると思います。リサイタルが終わった後に結論を出してしまおうと思っているんです」 話しているだけで、こんなに息苦しいものだなんて知らなかった。香穂子は呼吸を少しだけ早くさせる。 「日野君…。私としては…そろそろ日本を拠点に活動をしても良いと思うがね」 「そうですね…。それも考えましたが、やはり海外が良いかと思っているんです」 もし、吉羅のそばにいられる立場だったら、迷わずそうしただろう。 だが、それはもう許されないことなのだ。 香穂子には。 吉羅は海沿いのパーキングに車を停めると、香穂子をエスコートするように助手席のドアを開けてくれた。 高校生の頃、よく一緒に出掛けていた時に、してくれた懐かしい仕草だ。 吉羅は覚えてくれているだろうか。 それとも覚えてくれていたのだろうか。 そんなことをぐるぐると考えたりしてしまう。 香穂子が車から降りると、吉羅はそれを確かめるように歩き出す。 こんな仕草をひとつ取っても、あの頃と何も変わってはいない。 あの頃と違うのは、香穂子が法的でも大人になり、ヴァイオリニストとしても名前を知られつつある存在になり、学院の生徒ではなくなってしまったことだ。 これは大きく違う。 そして、吉羅暁彦が婚約してしまったということ。 これも大きく違う。 そして、ふたりがいつまで経っても、恋が許されない立場にあることは、何も変わらないことだった。 海岸に出ると、あの頃と同じように、香穂子は子犬のようにはしゃいでしまう。 これもタイムスリップしたと思うほどに同じだ。 「君は変わらないね」 「ヴァイオリン以外のところの成長は、忘れてしまったみたいです」 香穂子はおどけるように、本当のことを言う。 精神的には全く成長出来なかった。 きっと吉羅も呆れてはいるだろう。だがこれが自分だ。今さら呆れられるのを焦ってもしょうがないのだ。 こうして一緒にいてくれるひとは、香穂子が一番欲しくて、一番手に入らないひとなのだから。 香穂子は高校生の頃を懐かしむように、無邪気に笑う。 「…理事長! 貝殻ですよ。こんなに可愛い!」 桜色の貝殻を見て、思わず声を上げてしまう。いつも海はとても身近だったのに、留学している間は、身近ではなくて遠い存在だった。 だからこそ、こうして再び海に来られたことが、何よりも嬉しかった。 香穂子は、まるで子供のようにローファーを脱ぎ捨てると、波と戯れる。 無邪気に笑って、吉羅に手を振ると、彼は困ったような笑みを浮かべていた。 「そんなに楽しいのかね?」 「楽しいです。海は久し振りですから。だって、ウィーンからは海はかなり遠かったですから」 香穂子が屈託なく言うと、吉羅は静かに近付いてくる。 「…君は海が好きなはずなのに、海が身近に見られない生活を、続けるつもりなのかね?それに堪えられるのかね?」 吉羅は何処か香穂子を非難するように言うと、厳しい瞳を向けてくる。 「…あ…」 言われる通りだ。 ウィーンにいる間、海と吉羅が恋しくてしょうがなかった。 吉羅と海がない世界で生きる辛さは、一番よく解っているはずなのに。 それでも、香穂子は行かなければならないと思う。 「…海がなくても、こうしてこころのなかに海を閉じ込めて行きます。それが一番良い方法です」 香穂子は寂しさを滲ませながら、吉羅に微笑む。 吉羅はハッとしたように一瞬だけ息を呑む。表情がかなり厳しくて、香穂子は言葉を詰まらせた。 「…君は、いつからそんなに頑固になってしまったのかね…?」 「頑固じゃないです。私はいつも通りですよ」 香穂子はさらりと受け流すように言うと、再び波と戯れ始めた。 吉羅が他の女性と幸せになるのをこの目で見たくない意気地無しだから、こうして逃げるのだ。 愛するひとの幸せを祈れないほどの意気地なしなのだ。だから吉羅も見限ってくれても良い。 考え事をしていたせいか、香穂子は不意に、石に足を取られてしまう。 「…やっ…!」 そのまま砂浜にダイビングしてしまいそうになったところで、香穂子は吉羅に抱き留められてしまった。 「…全く…、不注意なところはあいも変わらずだね」 「す、すみませんっ!」 吉羅にうんざりとしたように溜め息を吐かれてしまい、香穂子は思わず躰を小さくした。 自分の足で立とうと思うのに、吉羅がそれを許してはくれない。 「…大丈夫ですから。離して下さって構わないです…」 「また、君はどうせ躓く」 吉羅に思い切り抱き締めれて、息苦しくなる。 吉羅の懐かしいコロンの香りがして、胸を蕩かされた。 「…吉羅さん…お願いです…。離して下さい…」 「離さない…と、言ったら?」 吉羅は艶やかな掠れ声で呟いてくる。まるで香穂子を追い詰めるように甘い声だ。 「…困ります…」 「困らせたいと言ったら?」 「…私以外にも、吉羅さんの婚約者さんも困るんじゃないです…」 言いかけたところで、唇を塞がれる。 そのまま言葉を飲み込んでしまうようなキスだった。 |