*約束*


 吉羅のキスは、香穂子の総てを飲み込んでしまうような熱いものだった。
 総てを奪い尽くすような情熱的な炎に躰を焼尽くされて、香穂子は激しく喘いだ。
 こんなキスをする資格は、吉羅にはないはずなのに。
 どうしてそんなことをするのだろうか。
 他の女性と結婚が決っている筈なのに、どうしてこんなにも心を乱すことをするのだろうか。
 香穂子は、吉羅のキスの熱さに泣きそうになってしまう。
 鼻がムズムズして、今にも泣き出してしまいそうだ。
 吉羅の舌は容赦なく香穂子の口腔内を愛撫し、絶対的な存在感を刻みつけてきた。
 息苦しくてしょうがない。
 こんなにも苦しいことは今までなかった。
 お互いの唾液を交換するような深いキスに溺れる。
 香穂子はとうとう吉羅にすがりついた。
 総てを支えて欲しい。
 そんな資格も機会も、もう永遠に失われてしまったというのに、こころから激しく求めてしまう。
 ようやく唇を離された時には、自力で立つことが難しくなってしまっていた。
 息つかいが激しくなる。
 吉羅は、香穂子を見守るように柔らかく抱き締めてくれた。
「…どうして…そんなことをされるんですか…?」
「君にキスしたかった…」
 吉羅の低い声が切なく響いて、瞳の奥深いところから涙が零れ落ちそうになった。
「…そんなこと…いけません…。だって…、あなたは…将来を誓うひとがいるんですから…」
 香穂子が思い詰めるように吉羅を見つめると、切なくも苦しいまなざしが下りてくる。
 吉羅も同じぐらいに苦しいのは解っている。
 だが、ふたりはもう同じ道を仲睦まじく歩くことなどないのだ。
 だからこそ、こんなことはしないで欲しい。
 気持ちが痛くて堪らなくなるから。
「…吉羅さん…」
「もう暫く…、君をこうして抱き締めさせて欲しい…」
 香穂子が否定的な言葉を呟く前に、強く抱きすくめられる。
 理性では駄目だと言っているのに、本能と気持ちが強く否定してくる。
 結局、香穂子は気持ちと本能に負けてしまい、暫く、じっとしていた。
 きっと吉羅はこの気持ちを理解してはくれない。
 だから、こうして暫くだけでもそばにいよう。
 いずれは消えてなくなる泡沫の恋なのだから。

 吉羅に抱き締められてキスされた熱が、まだ染み付いている。
 あれから三日経ったというのに、消える気配など何処にも見えなかった。
 今日は、学院主催のパーティがある。
 学院出身の音楽関係者が多数出席をするものだから、香穂子としても行かなければならない。
 本当は、リサイタルを控えているからと断りを入れたかったのだが、それは出来そうになかった。
 吉羅にはもう逢ってはいけない。
 あのキスと抱擁で、香穂子は蕩けてしまい、このまま吉羅のそばにいたいと思った。だがそれはしてはならぬことだと、自分に戒めた。
 逢ってはいけないし、逢わないほうが良い。
 だからパーティにも出席したくはなかった。
 このまま流されると思っていたからだ。
 次に逢って抱き締められれば、きっと堪えられないだろうから。
 香穂子は、今日は吉羅から離れることだけを意識して、パーティへと向かった。

 パーティに出ると、開始前から様々なひとと接触することが出来た。懐かしい顔や憧れの顔が沢山あり、とても充実した時間を過ごせた。
 一通り挨拶を済ませた後、懐かしい金澤と話す機会を得た。
「日野、随分と良い演奏をするようになったな。お前を担当した教師として誇りに思うよ」
「有り難うございます。だけどまだまだですから、頑張ります」
「ああ」
 不意に金澤は入口付近に視線を飛ばす。香穂子も釣られてその方向へと視線を向けると、そこには吉羅と婚約者が仲睦まじく会場に入って来るのが見えた。
 正直言って、まともに見ることが出来ない。
 吉羅と婚約者が余りに輝いていてお似合いで、見るだけで胸が苦しくなってしまうから。
「日野…?」
「あ、すみません。理事長も年貢の納め時なんだなって思っただけですよ」
 香穂子は曖昧に笑うと、金澤だけに視線を向ける。吉羅を視界から追い出してしまいたかった。
「日野、吉羅も色々と大変なんだ…。婚約者は、大手銀行の創業家の娘でね。学院の為にも結び付きを強化するのが狙いなんだろう」
 金澤はやるせない溜め息を吐くと、香穂子の背中を優しく叩いた。
「…学院は、まだそんなに苦しいんですか…?」
「お前さんがいた頃に比べたら、吉羅がかなり頑張ったから、改善されている。それにお前さんも、学院の生徒である時には、かなり貢献してくれただろう? そのお陰で、経営は軌道に乗ったが、以前の状況が酷かった分まだまだなところもあるんだ…」
 金澤は、香穂子に許してやれとばかりの視線を送っている。
 金澤の話を聞く、益々離れなければならないと、香穂子は感じていた。
 吉羅は自分に相応しい相手を選ぶのだ。
 ただそれだけだ。
 香穂子とは、元々、住む世界が違うひとなのだから。
「金澤先生、今夜は一生懸命演奏しますから、聴いて下さいね」
「ああ。それとチケットを有り難うな。月森とのもお前さん単独のも、どちらも行かせて貰うからな」
「有り難うございます。…だけど、私のリサイタルの日は、理事長の結婚式では…」
「…そうだな。だが、二次会に行かなければ充分見に行ける。みなとみらいホールと、式のあるホテルは近いからな」
「そうですか…」
 香穂子が演奏をするホールの直ぐ近くで、吉羅は結婚式を挙げる。何とも皮肉な話だと香穂子は思う。
 それが自分達の運命なのだ。
 避けられない運命なのだ。
「当日、晴れると良いですね」
「ああ。そうだな」
 金澤と話していると、吉羅たちがこちらにやって来る。
 逃げなければならない。
「吉羅理事長たちがご挨拶に見えたようですよ。私はスタンバイがあるので、これで失礼しますね」
「おい、日野っ!」
 逃げようとしたところで、背後に厳しい視線のオーラを感じる。
「日野君、君は何処に行こうとしているのかね」
 冷たい声で呼び止められてしまい、香穂子は逃げられなくなってしまった。
「…あ、あの…」
「君に私の婚約者を紹介したくてね。…彼女も是非君に挨拶をしたいと言っている」
「はい…」
 また吉羅に追い詰められる。
 どうしてそっとしておいてくれないのかと、泣きそうになった。
「日野香穂子です。星奏学院の頃は、よく吉羅理事長にはお世話になりました」
「あなたのお噂は、暁彦さんから聴いています。初めまして」
 にっこりと微笑む彼女の姿は、とても美しくて、女の香穂子ですらもうっとりとしてしまう。こんなに綺麗な女性はなかなか探してもいない。女優ですらも、敵わないと思う程に綺麗だ。
「今後ともよろしくお願いしますね。日野さん」
「はい、宜しくお願いします」
 香穂子は笑顔とは裏腹に、しょっぱい気持ちになる。
 どんなに手を伸ばしても敵わない。
 美しさと気品は。
 香穂子は涙を隠しながら、笑顔でふたりの姿を見送った。
 まだ吉羅のことが好きで好きでしょうがない。
 だが、この感情は許されるものではないから。
 手に入れてはならない存在のひとなのだから。
 香穂子は感情を押し殺しながらただじっとしていた。

 ヴァイオリンの演奏の番が来て、香穂子は月森との合奏を披露する。
 哀しくも美しい恋曲だ。
 香穂子は吉羅たちを見ることなく、ただ演奏に全神経を集中していた。



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