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香穂子は無事に演奏を終えると、会場の隅で誰にも見つからないように小さくなっていた。 吉羅を視線で探すと、美しい婚約者と共に、笑顔で関係者と話し込んでいる。 帰国してから何度となく目にしてきた光景に、胸がキリキリと痛む。 認めなければならないのに、認めることが出来ない。 香穂子は息苦しくなるのを感じて、吉羅から視線を外した。 “有名ヴァイオリニストになったら…” それは戯言に過ぎなかったのだ。 吉羅にとっては、やんわりとした断りだったのだろう。 それを約束だと信じてこれまで頑張ってきたのだから、本当に笑えてしまう。 香穂子がひとりでいると、知り合いや音楽関係の人々が声を掛けてくれて、気持ちを紛らわすことが出来た。 パーティが終了するまで、香穂子はひたすら話していて、無駄なことをあれこれ考える心配がなくて助かった。 ようやく帰ろうとしたところで、誰かに肩を叩かれた。 「日野君、家まで送って行こう」 「…あ、あの…、婚約者の方は…」 「先に帰ったよ」 吉羅は冷めた声で言うと、香穂子を静かな炎が揺れるまなざしで見つめた。 「…吉羅さん、ひとりで帰れますから大丈夫です」 これ以上近付いてはならない。今までは、ずっと恋心に流されていた感がある。もう流されてはいけないのだ。 「危ないから送る。送り狼にはならないから安心して構わないよ」 送り狼になる価値もないということなのだろう。 だがはね付けるしかない。 「つ、月森君と一緒に帰ろうかと」 「月森君は先に帰ったよ」 吉羅は香穂子を攻めていく。 どうしても断れないように追い詰めていくつもりなのだ。 それが悔しくてたまらない。 「…来なさい。送るから」 思い切り腕を掴まれると、吉羅は香穂子を引っ張っていく。 その強引さは相当なものだ。 「あ、あのっ!」 「君は久し振りの日本で解っていないんだろうね。横浜は最近物騒なんだ。ひとりで帰らないほうが良い」 「…吉羅さん」 こうして香穂子の腕を掴んで離さない吉羅のほうが余程物騒だと思いながらも、香穂子は何も言わなかった。 助手席を勧められたが、流石に座ることは出来なかった。 フェラーリに後部座席に腰を下ろしても、吉羅の影響力はかなり凄くて、香穂子は躰を小さくさせる。 「日野君、月森君とのリサイタルをとても楽しみにしているよ。彼女と一緒に見に行かせて貰う」 「はい、有り難うございます」 会場に、吉羅と婚約者が揃っているのを想像するだけでも胸が痛んだが、香穂子はその感情をあえて飲み込もうと懸命になった。 「私も最高の演奏をお聴かせ出来るように頑張りますね」 「ああ。楽しみにしているよ」 吉羅は落ち着いた声で言いながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべたのが、ミラー越しに確認することが出来た。 「頑張ります。ソロリサイタルは理事長にお聴かせすることは出来ませんから、その分、堪能して頂けるように頑張ります」 吉羅は頷いてくれた後は、何も話さなかった。 こうして車で送って貰うことも恐らくは最後だろう。 吉羅のそばにいることは、もう出来なくなるのだから。 車は緩やかに香穂子の家の前で停まる。 「有り難うございました。理事長。リサイタルの当日にお会い出来ることを楽しみにしています」 「ああ。おやすみ日野君」 「おやすみなさい」 香穂子が車から降りると、フェラーリは夜の闇を疾走していく。 こうして見送るのはこれが最後だから。 香穂子は名残惜しい気分になりながら見送っていた。 翌日から、ハードなリハーサルが始まり、香穂子は疲労と緊張の真っ直中にいた。 だが、こうして音楽を作り上げていくというのは、何よりもの楽しい作業だ。 これからはヴァイオリンだけを頼りに生きていく。 ひとりでもヴァイオリンと共にあれば、きっと明るく生きて行くことが出来るだろう。 「…君は日に日に進化していくね。毎日、驚かされてばかりだ。同じソリストとして負けられないね」 月森にヴァイオリンを認めて貰えるのが嬉しくて思わず微笑んでしまう。 「私も今回の相手が月森君だからこそ、切磋琢磨出来るんだ。どうも有り難う」 明るい調子で言うと、月森がスッと目を細めてこちらを見つめてくる。 美しい指先で頬に触れられて、一瞬、ドキリとした。 「おれも相手が君で良かったと思っている。君はおれが切磋琢磨出来る唯一の相手だからね。お互いに頑張ろう」 「うん…月森君…」 触れられるとドキリとはするが、吉羅に対する反応と全く違う。 月森にあるのは親愛の情に他ならない。 「…おれはずっと君を見守っているから…。苦しくておれの手が必要になった時は、遠慮はいらないから手を取ってくれ」 「有り難う。だけでなるべくひとりで頑張ってみるね。有り難う…」 「ああ」 月森の手を素直に取ることが出来たら良かったのに、生憎、そういうわけにはいかない。 まだ、吉羅のことを忘れられない以上は、その手を直ぐに取るなんてことは出来ないのだから。 香穂子はただ笑顔を浮かべて、「有り難う」と言うことしか出来なかった。 最終リハーサルが終わり、香穂子はホールの楽屋口から出る。 とうとう明日だ。 日本に帰ってきて二週間。みっちりと音作りにかけてきたのだから、きっと上手くいく。 そう信じて、香穂子は夜空を見上げた。 明日で、数年間こころに秘めていた淡い恋を諦めるのだ。 香穂子にとって、明日は吉羅との恋の卒業式なのだ。 ゆっくりと駅に向かって歩き出した時に、不意に肩を叩かれた。 「日野君」 艶やかな甘い声に、香穂子はこころを震わせながら振り向く。 誰よりも好きなひとが立っているのが見えた。 「こんばんは理事長」 「いよいよ明日だね。調子はどうかね?」 「調子は明日聴いてのお楽しみです」 香穂子が笑顔で言えば、吉羅は頷いてくれる。 「楽しみにしているよ。その感じだと、期待以上のものを聞かせてくれそうだね」 「理事長のご期待にそえるかは解らないですが、とにかくベストを尽くします。では」 香穂子が吉羅から離れようとしたところで腕を掴まれる。 「明日リサイタルを控えている君には申し訳ないが、一杯付き合わないかね?」 「…あの、今夜は早く帰ろうかと…。明日のことが…」 そこまで言ったところで、吉羅の熱い視線を感じる。 艶やかなまなざしは、いつも夢見ていた甘くて情熱的なものだった。 吉羅の瞳を見ているだけで、胸がおかしくなってしまうぐらいに切なくなる。 吉羅の魅力溢れるあの瞳を見てしまったら、抗える筈などないではないか。 これ程までに吉羅はまだ香穂子への影響力があるのだ。 それは吉羅のことを深く愛していることを、思い知らされただけだった。 まだ吉羅を愛している。 それは恐らく、一生治らない病だ。 「…少しだけ…なら…」 香穂子はとうとう頷いてしまう。 あんなにも近付かないと強く誓ったのに、それは脆くも崩れ落ちてしまった。 「良いラウンジがあるんだ。横浜の夜景を一望出来る」 「はい」 「じゃあ行こうか」 吉羅はごく自然に香穂子の手を握り締めると、まるで恋人のように引っ張ってくれる。 それが嬉しくて、香穂子はほんのりと頬を紅に染め上げる。 神様。 どうかお願いです。 もう少しだけで良いから夢を見させて下さい…。 香穂子は切なく祈りながら、吉羅の手を握り返した。 |