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吉羅とふたりで食事をすることはあっても、こうして飲みに行くことなんて、今までなかったのだ。 横浜の夜景を一望することが出来るラウンジに、吉羅は連れていってくれた。 もう高校生ではないのだ。 それを思い知らされるような気がする。 あの頃も平行線の片思いをしていたが、頑張れば吉羅に手が届くと、ずっと思っていた。 だが、それがどのみち間違いであったことを、香穂子は感じる。 ふたりは夜景が美しく見える席に案内されて、軽い食事とアルコールを注文した。 「理事長がお酒を飲むのを見るのは、金澤先生と一緒に初めてバーに行った時以来かもしれません」 「そうだね…。いつも車だったから、君の前で飲むことはなかったからね」 吉羅はしみじみと呟くと、運ばれてきたバーボンを見つめた。 「君の明日のリサイタルが上手くいくように乾杯しようか」 「有り難うございます」 香穂子はふんわりと微笑むと、弱いカクテルが入ったグラスを傾ける。 「では。吉羅さんの結婚式が上手くいくように」 「…そうだね…」 吉羅は僅かに目を伏せた。 ふたりでグラスを合わせる日が来るなんて、思いもしなかった昔を思い出す。 それだけの時間がふたりの間を通り過ぎたのだ。 乾杯をして、香穂子は少しだけアルコールに口づけた後、運ばれてきた料理を楽しむ。 「アルコールは余り飲まないのかね?」 「嗜む程度ですよ。空腹で飲んでしまうと、酔っ払ってしまうので…」 「そうだね。アルコールを余り飲まないひとが空腹で飲むと、確かにアルコールは回りやすいね」 香穂子を見つめて微笑むと、吉羅は再びアルコールに口付けた。 「今日はお車ではないんですね?」 「ああ。今夜は電車なんだよ。私には珍しくね」 吉羅は微笑むと、アルコールに視線を落とす。 「…日野君、こうしてふたりでいると、君が学院にいた頃を思いだすね」 「そうですね。色々なところに連れていって頂いて、良い勉強になりました。特に上質なものを見分ける力は養えましたよ。有り難うございます」 香穂子は本当に懐かしくも愛しい日々を思い出して微笑む。あの頃は、早く吉羅に追いつきたくてもがいていたが、今はあの日々に戻りたくてしょうがない。 吉羅に相手がいなくて、いつかそのそばにいられるようになるのではないかと、夢見ていた頃に。 香穂子は懐かしさの余りに目を細めると、横浜の夜景を見つめた。 「…懐かしいです。本当に…」 「そうだね…。君がヴァイオリン留学をしてしまった後は、よく思い出していたよ。懐かしくも楽しい日々をね」 今夜の吉羅はノスタルジーが滲んでいて、香穂子のこころを甘く蕩かせる。 あの頃は上質なものを沢山教わった。 上質な男というものも。 最早、手が届かない存在ではあるが。 「ヴァイオリンと言えば、アルジェントリリやファータどもが、君の音色を聴きたいと言っていた。また聴かせてやってくれたまえ」 「はい、リリには逢いたいですし、逢いに行きます」 「リリだけにかね…?」 こちらがドキリとするような言葉を吉羅は吐くと、熱情が帯びたまなざしを香穂子に向けてくる。 「…あ、あの…、また、学院には伺います…」 本当は、他の女性のものになった吉羅を見たくはない。だが、こうして懇願するかのように見つめられてしまうと、忘れようとしていた恋心が再燃する。 「そうしてくれたまえ。待っているから」 「はい」 「放課後の演奏会がなくなって寂しいと思っていたんだよ。だから、また演奏会をしてくれたまえ。ファータどもと待っているから」 胸が痛くて泣きそうになる。 吉羅はいつも狡い。 香穂子が恋心を忘れようとしたタイミングで、甘い言葉を掛けてくるのだから。 「…今度、帰国した時にまた伺います。その時は、もう、理事長には…吉羅さんには可愛いお子さんがいらっしゃるんでしょうね…」 香穂子は笑おうと懸命になったが、上手く笑うことが出来ない。 引きつった笑みしか浮かべることが出来なくて、切なくなった。 吉羅の瞳が神経質にスッと細められる。 その瞳には明らかな不快感が帯びていた。 「リサイタルが終われば、またウィーンに行くのかね?」 吉羅の声が低く冷たいものになる。 「ウィーンのアパートメントはもう引き払ってきました。今度は拠点をパリかスイスに移そうかと思っているんです。リサイタルが終われば準備をして、それが終われば移住するつもりでいます」 香穂子は出来るだけ淡々と呟く。 だが吉羅の瞳は強張りを見せて、鋭くなる。 「日野君、君は日本に帰ってくるのではなかったのかね?」 「…そのつもりでしたが、やはり海外を演奏拠点にしたほうがメリットが多いような気がして…」 「…私が…行くな…と、言ったら君はどうする?」 吉羅は香穂子を真摯なまなざしで見つめてくる。 本気なのは明らかだ。 吉羅の言葉や瞳が、一生懸命築いた香穂子のこころの壁を、簡単に崩してしまう。 壁が崩れて、吉羅を好きだという感情が滲み出てきた。 どうしてこんなにも好きなのだろうか。 好きでしょうがないひとに言われれば、決心が鈍るではないか。 「…有り難うございます…。だけど…」 香穂子が吉羅の瞳をまともに見ないままで言うと、不意に手を握り締められた。 「君が日本にいると言うまで私が離さないと言ったら、どうする?」 吉羅の手の温もりが、強さが、大きさが、香穂子の決心を揺り動かした。 懐かしくも切ない手のひら。 もう自分のものにならないから、余計に辛い。 だからもう手を差し延べないで欲しい。泣いてしまうから。このまますがりついてしまうから。 それは決して許されないことであることが解っているから言えない。 「…離して下さい…」 「離さない」 吉羅は強い調子でキッパリと言い切ると、香穂子の手を更に拘束した。 「…あの時…、君がウィーンに留学を決めた時に、こうすれば良かったと、私は何度も後悔した…。だから、今回は後悔したくない」 「…吉羅さん…」 香穂子は吉羅の横顔を見つめながら、まだ愛していることを切なく感じる。 その細かいところまで整った横顔も、スーツを上手く着こなすところも、冷めた大人過ぎる部分と少年が同居しているところも…。 総て愛してやまない部分だ。 だからこそ自分のものにならないのが辛かった。 「…吉羅さんは…結婚されるじゃないですか…。いくら私が側にいたいと思っても…側にはいられないじゃないですか…。いくらあなたを愛していても…、あなたは私のものにはならないじゃないですか…」 感情が怒濤のように押し寄せてきて、香穂子を捕らえる。 「…こうしてふたりでいる時は…君のものだ…。私のこころは…」 吉羅の声もまた、切なく苦しく響いていた。 「…じゃあ…今夜は…私のものなのですか…?」 「…そうだ」 掠れた吉羅の声に、香穂子の鼓動は激しくなる。 このひとが自分のものになるなんて、夢のまた夢だと思っていたから。 まだ吉羅はこの時点では誰のものでもない。 だから結婚式までの間は、自分のものになる。 永続的ではないのは解っている。 だが、それでも良いと、この瞬間だけは自分だけのものだから。 「…だったら、今夜だけで良いです…。私をあなたのものにして下さい…」 声が切なく震えていた。 |