13
カードが挟んであり、香穂子は震える指先でそれを取る。 カードに視線を落とすと、吉羅の優美な文字でメッセージが書かれていた。 日野香穂子様。 本日のリサイタルの成功をお祈りしています。 吉羅暁彦 文字を見つめるだけで、吉羅の顔が浮かんでしまい、泣きそうになる。 本当にこころから愛した男性。 これから、これ以上に好きになる男性はいないだろうから。 あの夜ほど夢のように甘くて切なくも官能的な時間はなかった。 この躰に刻まれた吉羅の所有の痕は、消えてしまった。だが、こころに刻まれた想いは消えやしない。 「日野さん、時間です」 「はい。有り難うございます」 香穂子は深呼吸を何度かした後で、背筋を伸ばしてステージに向かう。 幕が開き、礼をした後に、視界に入った客席を見て、香穂子は息を呑んだ。 そこには今日いないはずの吉羅暁彦が、座っている。 香穂子の視線に気付いた瞬間、穏やかに微笑んで頷いてくれた。 どうして…。 どうしてここにいるのだろうか。 結婚式は今日のはずなのに、いつものように上質のスーツを着こなしている。 隣には吉羅の妻の姿はない。 どうしてなのかと、その場で問い詰めてみたくなった。 香穂子が気付いたと解ったのか、吉羅は酷薄な笑みを潔癖な唇に浮かべている。 香穂子は唇を軽く噛むと、演奏に集中した。 ヴァイオリンの演奏に夢中になりながら、香穂子は吉羅のために丁寧に演奏する。 ここに来てくれたことを純粋に感謝するために。 吉羅にとってこころが揺さぶってくれるような音色を、願いを込めて演奏した。 アンコールが終わり、香穂子は泣きそうになりながら吉羅の拍手を浴びる。 もう香穂子の者ではない吉羅。 他の誰かの男になるのだ。 香穂子は楽屋に戻ると、大きな溜め息を吐いた。 不意に背後に吉羅の気配を感じる。 拍手が聞こえて、香穂子は思わず振り返った。 吉羅がすぐ近くに微笑んで立っている。 嬉しさと胸を締め付けられるような痛みに、香穂子は瞳から涙を零した。 「君は泣き虫だね」 吉羅は苦笑いをすると、ゆっくりと近付いてくる。 「…どうして…」 吉羅は頬を濡らす涙を指先で拭うと、香穂子をその胸に抱き寄せてきた。 胸騒ぐ甘い香りに、香穂子は更に涙を零す。こんなにも胸を甘く切なく蕩かす香りは他にはない。 「…結婚式は…」 「これからだ」 「…じゃあ、婚約者の方は…、今、準備をされているんですか?」 また胸が引き千切られてしまいそうになるぐらいに痛い。 「…いいや。彼女は準備しないんだ。私は…彼女と結婚はしない…」 「え…?」 香穂子は目を大きく見開くと、吉羅を思わずじっと見た。 「…どうして…」 「…君が帰ってきて、まだ私が君を愛していたら、忘れられなかった場合か…、彼女が愛するひとが帰ってきてまだ愛してくれる場合は…、結婚は取り止めにすることになっていたんだよ。政略結婚だったからね。彼女から頻繁に電話があったのは、その打ち合わせもあったんだよ。彼女は今日、相手を代えて結婚したよ。本来、結婚すべき相手とね…」 「…嘘…」 そんなことは俄かに信じられない筈なのに、こころが吉羅を信じろと命令している。 驚く余りに呼吸をすることすらも忘れてしまい、香穂子はただ吉羅の顔を見た。 吉羅は、驚いた顔を隠せないでいる香穂子に、フッと甘い笑みを浮かべる。 「…お前だけを愛している…。…香穂子、私はお前といつも一緒にいたいんだよ…」 「…吉羅さん…」 吉羅のこころが胸に迫り泣けてくる。香穂子が涙目で見つめると、吉羅は瞳から零れ落ちる涙を舌で拭ってくれた。 「…ほら、泣かない、お前は泣き虫だね…。折角、これから綺麗にして貰わないといけないのに、これじゃあいくら綺麗にしても崩れてしまうよ」 吉羅は笑いながら香穂子の涙を拭った後で、頬に唇を落とした。 「…香穂子、もう一枚ウェディングドレスがあるんだが、今から着る気はないか?」 「ウェディングドレス…」 心臓が飛び出してしまうかと思う程にドキドキしてしまい、俄かに信じられない。 「…そ、それは、そ、その…」 嬉しさと緊張が込み上げてきて、香穂子は真っ赤になりながら息を呑む。 「今すぐ結婚式を挙げないか? リサイタルに来たお前の友人知人には案内してある。約束を守らないとならないからね。お前との約束…、覚えているかな…?」 「…はい…。覚えています…。有名ヴァイオリニストになったら、男女の付き合いをしても良いと…」 香穂子の言葉に、吉羅は頷いてくれる。 「…付き会いを飛び越えることになるが…、それでも…構わないか? 私は、お前を早く自分につなぎ止めておきたいと思っているただの男だからね…」 「吉羅さん…」 「お前は今から“吉羅さん”になるんだから、その呼び方はだめだ。ちゃんと“暁彦”と呼んで欲しい」 「…暁彦さん…」 吉羅を名前で呼ぶのは、やはり相当緊張してしまう。 香穂子は、吉羅にはにかんだ笑みを浮かべた後で、見つめる。 「結婚、してくれるか? 私のヴァイオリニストさん?」 「…はい…。暁彦さん…。あなたと結婚します」 泣き笑いの表情を浮かべながら言うと、吉羅に強く抱き締められて、深くて熱いキスを受けた。 こんなにも激しくてロマンティックなキスは他にない。 息が苦しくなるまでお互いを求めあうようにキスを重ねた後で、ふたりは見つめあい、ごく自然に微笑みあった。 「…香穂子、今のままでも充分に綺麗だが、もう少し花嫁らしくして貰いに行こうか」 「…はい」 吉羅は頷くと、香穂子の手を取って、ゆっくりとしたペースで、式場へと連れていってくれた。 隣のホテル用意されていたのは、温かでささやかな式だった。 友人知人が祝福してくれる、素朴だが温かなものだ。 香穂子の両親はと言えば、急激な展開に苦笑いをしながらも、四季に参列してくれていた。 香穂子は花嫁として相応しいメイクを施され、ピッタリとフィットしたウェディングドレスを身に纏う。 香穂子に似合うデザインを、吉羅が選んで仕立ててくれたものだ。 「…綺麗だよ…」 「暁彦さん…」 愛するひとと共にヴァージンロードを進み愛を誓う。 指輪の交換の時は、幸せでずっと泣きじゃくっていたように思う。 ようやく果たされた“約束”。 祭壇の前でふたりは約束は守られるためにあるものだと、改めて感じていた。 ホテルのインペアリアルスィートでゆったりと情熱的に愛を交わした後で、ふたりは幸せに酔い痴れるかのように抱き合っていた。 「暁彦さん、凄く幸せです…。リリにも報告しないとダメですね」 「そうだね。アルジェントリリにきちんと報告しなければ怒るだろうからね…」 吉羅は、香穂子の柔らかな曲線をなぞりながら、笑みすら浮かべて呟いた。 「私たちが初めて愛し合った朝に、お前は私の前から出ていってしまっただろう…? 直ぐに捕まえようと思って、こうして式を準備した…。私は再会した時から、お前を離す気はさらさらなかったからね。あの夜、お前を捕まえておくために、最低なこともしたし…」 「最低なこと…?」 「お前との間に子供が出来れば、つなぎ止めることが出来ると思ったから…。最低だろう…?」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子を抱き寄せた。 「幸せにする。お前が嫌だというぐらいにね」 「…暁彦さん…」 香穂子の泣きそうに幸せな顔を見つめると、吉羅は甘いキスをくれる。 「始めよう…。私たちの第一歩を…」 「はい」 これからふたりで歩いていく。 明るい未来へと。 香穂子は吉羅を抱き締めると、幸せに酔い痴れていた。 |