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目をゆっくりと開けると、吉羅が胸のなかで思い切り抱き締めていてくれた。 「大丈夫か?」 「…はい。大丈夫です」 香穂子が気がついたことを確認すると、髪や躰を柔らかく撫でてくれる。 本当にこころから大切なものであるかのように。 ようやく吉羅のものになれた。 肉体的には。 こころはずっと昔から吉羅のものであったが。 吉羅は、香穂子の瞼にキスをすると、その瞳を覗きこむ。 「…朝まで一緒にいよう。朝までお前を抱いていたい」 「はい…」 吉羅は香穂子を組み敷くと、再び扇情的な愛撫を始める。 「…香穂子…」 名前を囁きながら、香穂子が世界で一番素晴らしい女性であるかのように扱ってくれた。 吉羅の愛撫に身を任せながら、香穂子は涙を零す。 今宵が最後だと解っているから。 吉羅は、何度も香穂子を高みへと押しやり、快楽を染み透らせる。 こんなにも気持ちが良くて幸せなものはない。 それにしがみつくように、香穂子は快楽を手のひらに握り締めた。 艶やかで幸せな時間は直ぐに過ぎ行く。 吉羅との別れの朝が来たのだ。 吉羅よりも早くベッドから出ると、香穂子はシャワーを浴びて身仕度をする。 終わってしまった。 幸せでたまらない時間が。 終わってしまった。 恋の時間が。 香穂子は、まだベッドで眠る吉羅を涙ぐんで見つめた後、整った薄い唇に最後のキスを落とした。 「…愛しています」 それだけを小さく言うと、香穂子は吉羅に背中を向けた。 もう振り返るわけにはいかない。 振り返ることなんて出来ないから。 香穂子は吉羅に背中を見せたまま、ひとり部屋を後にした。 香穂子が出ていった後、吉羅はゆっくりと目を開けた。 別れのキスの名残が、まだ唇に残っている。 あのままでは、もう二度と吉羅の前に姿を見せることはないだろう。 「…香穂子…」 吉羅は愛しげにその名前を呼ぶと、大きな溜め息を零した。 リサイタルの最終リハーサルを終え、香穂子はドレスに着替える。 しかし吉羅がつけた痕は全身に及んでいて、急遽、衣装を変えなければならなかった。 首が隠れるドレスをたまたま用意をしていて助かった。 愛しいひとが刻んでくれた愛の痕。 だがそれはもうやがて消え去り、二度と刻まれない運命だ。 香穂子は涙を瞳の奥に刻むと、リハーサルのためにステージに立った。 今日は最高の演奏を、愛するひとのために贈りたい。 ただそれだけだ。 香穂子はいつもよりも入念にヴァイオリンを奏でた。 リサイタルが始まる。 幕が開く前の緊張感に、躰を震わせる。 明日からはもう恋はしない。 新しい自分として生きて行くのだ。 「日野」 月森に声を掛けられて、香穂子は顔を上げる。 「今日はお互いに全力を尽くして頑張ろう」 「うん。頑張ろうね! 月森君!」 「…それと。今夜の君はとても艶やかで綺麗だ」 ほんのりと照れるように言われて、香穂子は嬉しくて微笑んだ。 「さあ、行こうか」 「うん。行こう」 拍手が巻き起こる。 あの客席に一番愛する男性が座っている。彼の最も愛する女性と共に。 だが、今日までは、いや、今日だけは吉羅は香穂子の男なのだ。 だから、せめて恋の曲だけでも愛するひとへ。 香穂子はステージの中央に出た時に、吉羅と婚約者の姿を見掛けた。ふたりは仲睦まじそうに微笑んでいる。 ステージと客席。 まるで隔たれてしまったふたりの関係のようだ。 香穂子は浅く深呼吸をすると、ヴァイオリンを奏で始めた。 今夜演奏する曲は、総て吉羅への恋文だ。最初で最後の恋文だ。 香穂子は、澄んだ気持ちになりながら、ヴァイオリンを奏でる。 いつもよりも調子良く奏でることが出来る。 香穂子は、ただ熱心にヴァイオリンを弾いた。 吉羅をこっそりと見つめながら思う。 昨日の出来事は、吉羅にとっては、たった一度の過ちなのかもしれない。 だが、香穂子にとっては、永遠の夜だった。これから支えてくれるのは、夢のような夜だけだ。 香穂子は月森と音色を合わせながら、吉羅に静かな愛が滲んだ音を聴かせた。 香穂子のソロ曲になり、迷わず“ジュ・トゥ・ヴ”を選んだ。 この曲だけで良いから、受け止めて欲しかった。 吉羅との想い出が沢山詰まった曲を、無心になって奏でる。 もう二度と逢わないと決めて、涙を見せずに、香穂子は曲を奏でた。 哀愁が滲んだ音色を奏で終わった後で、客席からスタンディングオベーションが巻き起こる。 香穂子は余りにもの反響に、驚いてしまった。 深々と頭を下げた後に顔を上げれば、吉羅も立ち上がって拍手をくれる。 それが何よりも嬉しかった。 これで大丈夫。 ひとりで生きていける。 吉羅暁彦に頼らなくても、ちゃんと生きて行けるから。 アンコールが沸き起こり、香穂子は再びヴァイオリンを奏でる。 お礼を込めて。新しい旅立ちへの願いを込めて。 香穂子はヴァイオリンを奏でた。 最後のアンコールが終わり、拍手が怒濤のように押し寄せてくる。 落ちていく照明に祈りを込める。 どうか拍手が終わるまでは、ライトは消さないで欲しい。 拍手が終わると、静かにライトが消され、香穂子は静かにステージから辞した。 こころで吉羅に別れを告げて。 ステージの後、月森やスタッフと軽い打ち上げをホテルで行なった。 温かいステージを共に作った仲間たちと一緒の打ち上げは、ほのぼのとした幸せがあった。 香穂子は短く打ち上げを切り上げると、未だ冷たい風が頬に痛い外へと出た。 今なら終電に間に合うからと、みなとみらい線に向かって歩いていると、見慣れたシルエットが視界に入ってくる。 吉羅だ。 香穂子は逢いたくなくて、吉羅が待つ手前の階段で降りようとした。 「香穂子…」 声を掛けられたかと思うと、いきなり腕を掴む。 「あ、あのっ。離して下さい…」 「家まで送ろう」 吉羅は腕を取ると、香穂子を強引に連れて行こうとする。 「大丈夫です。ひとりで帰れますから。…それに、吉羅さんは婚約者の方を送らなければならないでしょう?」 香穂子は力の切なさに泣きそうになりながら、吉羅の腕を振り切ろうとした。 「女性ひとりでは危険な時間だ。一緒に来なさい」 「大丈夫ですから。婚約者の方を送って下さい」 「彼女は無事に帰ったよ。君を送る番だ」 「…だけど私…」 「君を送りたいんだよ。私は」 吉羅は香穂子の腕を持つ手に力を込めてくる。 「…止めて下さい…」 「いいから」 吉羅は、香穂子を引っ張るようにその腕を掴むと、強引に助手席に座らせられた。 吉羅はハンドルを握り締めると、ゆっくりと車を出す。 みなとみらいから香穂子の家はすぐ近くだ。 吉羅はひとことも話すことなく、香穂子を家まで送ってくれた。 「有り難うございました」 助手席から降りながら礼を言った後で、香穂子は吉羅を真っ直ぐ見つめた。 「吉羅さん、末永くお幸せに」 香穂子はそれだけを言うと、逃げるように家のなかに駆け込んだ。 その瞬間、涙が瞳が零れ落ちた。 ソロリサイタルの当日、香穂子は楽屋にカサブランカの花があることに気付く。 誰だか直ぐに解る。 吉羅暁彦以外には考えられない。 今日、祭壇の前で新しい愛を永遠に誓ったひとの。 今夜のリサイタルに来られないことを詫びているのだろう。 香穂子はカサブランカを見るだけで泣けてきてしまった。 最初で最後のプレゼントだから。 |