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君をずっと遠くから見ていた。 透き通るような笑顔と、何よりも輝かしい表情が魅力的で、気がついたら目で追っていた。 奏でるヴァイオリンの音色はと温かな雰囲気はとても魅惑的で、夢中になって聞いてしまっている。 そして何よりも一途に私ではない誰かを見つめる瞳が、とても純粋て美しくて、惹かれていた。 私には、君にそのような瞳をさせることが出来ない。 だからこそ、こころを動かされていたのかもしれない。 その瞳が、何時まで経っても褪せることがありませんように。 はにかんだ明るい笑みが何時までも消えないように。 私はいつまでも君を見守っているよ…。 君の彼を見つめて頬を染めて微笑む姿も、いつまでも色褪せないように。 私なんてどうなっても良いから。 私は祈っているよ。 君の幸せだけを…。 毎朝、恋人の土浦を玄関先で待つのが香穂子の日課になっている。 いつも最高に可愛いところを見せたくて、さり気なく頑張るようになったせいで、少しだけ早起きになった。 いつもの時間に玄関のチャイムが鳴り響き、香穂子は慌ててドアを開ける。 「おはよう!梁太郎くんっ!」 「おはよう、香穂」 こちらが眩しく感じてしまう程の微笑みに、香穂子は釣られて微笑み返す。 いつもこの笑顔に、沢山の元気を貰えるのだ。 「さて、行くか」 手袋をはめた手でしっかりと繋ぎながら、ゆっくりと歩き出す。 まだ恋人になったばかりで、友達の延長から抜けきられない。 だが、少しずつ仲を進めていけるのだろう。 香穂子はそう信じている。 まだキスなんてしたこともないし、手を繋ぐだけが精一杯の淡い恋。 いつかときめいて夢見る瞬間が訪れるのだろうかと、香穂子はこころ密やかに期待していた。 ふたりで他愛ないことを話しながら、通学をする。 三年生からはふたり揃って音楽科に転科が決っているから、もっぱらそれが話題になっている。 「しっかり勉強して、音楽科の奴等に馬鹿にされないようにしないとな」 「大丈夫だよ、梁太郎くんは。きっと上手く出来るよ。みんなと仲良くなれるように頑張らないといけないのが、ちょっとだけ大変だけれどね」 香穂子の前向きな楽観視した言葉に、土浦の表情は些か曇る。 「あいつらは油断ならない。お前はもっと気を引き締めたほうがいいぜ」 窘めるように土浦に言われて、香穂子はほんの少しだけ溜め息を零した。 「…うん。だけど仲良くすることは大切だよ」 不意に、フェラーリが風のように颯爽とふたりの横を通り過ぎる。 理事長吉羅暁彦だ。 「相変わらず派手だな理事長殿は」 「そうだね」 「…理事長さ、お前を商品みたいに扱って、どういうつもり何だろうな。俺はそこが気に入らない」 土浦はあからさまに不快感を露にしながら、前を行くフェラーリに一瞥を投げる。 「…だけど、私のことを少しは考えてくれていると思うんだけれど…」 「考えてないさ。あいつ、お前を利益のためにとことん利用をするような気がして、俺はあまり良い気分じゃないんだよ」 「梁太郎くん…」 土浦がとても心配をしてくれていることは、香穂子も嬉しい。 だがもう少しだけ、寛容なこころを持って欲しいと思うのは、わがままなのだろうか。 校門を潜り抜け、教室の前までやってくると、土浦が心苦しそうな表情で香穂子を見た。 「…ごめんな香穂。今日から当分は一緒に帰れない」 「…え…?」 突然、予想外のことを言われてしまい、香穂子は息を呑んだ。 胸が突かれるように痛い。 「…そうなんだ…。朝は、一緒に行けるよね?」 香穂子が縋るように見つめると、土浦は視線を外した。 「ごめん…」 こんなことは、今まで一度もない。 ショックで胸が痛くなって吐きそうになる。 「この埋め合わせは必ずするから…今だけは許してくれないか…。…お前もコンミスに指名されて大変なのは解っているつもりだ…。…だが、俺も、今、やらなければならないことがあるんだ…。だからお願いだ…。少しだけ、俺のわがままを許してくれないか?」 土浦に手を握り締められて、その切ない想いは伝わってくる。 だが、香穂子も胸が痛くて切ないことを、きっと土浦は解ってはいない。 これはわがままかもしれないけれども。土浦の彼女としては失格かもしれないけれど…。 「香穂、すまないが…」 土浦の懇願する声に、香穂子は頷くことしか出来ない。 嫌われるのが怖いから。 このまま見切られるのが嫌だったから。 「…解ったよ。私は私なりに一生懸命頑張るから、梁太郎くんも頑張ってね。で、春にはふたりして笑えると良いね」 香穂子は胸が痛過ぎて、あからさまな笑顔しか浮かべることが出来ない。 だが土浦はホッとしたように、笑みを浮かべた。 気付いてくれていない。この痛みなんて。 気付いてくれていない。こんなに苦しい気持ちを。 香穂子は土浦の広い背中を見送った後で、溜め息を吐きながら教室へと向かった。 放課後になり、香穂子はヴァイオリンの練習に集中する。 ヴァイオリンを弾いている時は、とても自由で開放的な気分でいられた。 もうすぐ理事長就任式だ。そこで納得出来るアンサンブルを作り上げたかった。 吉羅にも納得して貰えるようなものを作りたい。 香穂子は自分の楽譜習得率を高めながら、アンサンブル仲間にも楽譜を練習して貰うように頼んだ。 これなら、何度か合わせれば、良いものが出来るからだ。 夕方までみっちりと練習をした後、香穂子はひとりで家路に着く。 ひとりで家に帰るというのは、なんて切ないものなのだろうかと思う。 昨日までは土浦と一緒に手を繋いで帰っていたというのに、今日はひとりだ。 寂しくて堪らなくて、気分が沈んでいくのを感じた。 翌朝、香穂子はいつも通りに学院へと向かう。 今日から学院に行くのもひとりなのだ。 手を繋いで、他愛のない話をするだけで楽しかった。癒されていた。 だが、今日からそれもないのだ。 土浦が忙しそうにする気持ちは解る。だが、せめて行き帰りだけでも一緒にいたかった。 せめて少しの時間で良いから、側にいて欲しかったのに。 こんな気持ちは、きっと土浦には解らない。 香穂子はどんよりとした気分で通学路を歩いた。 いつものように時間にかなり正確に、吉羅のフェラーリが香穂子の横を走り抜けていく。 いつもと同じ風景なのに。土浦がいない。 香穂子は溜め息を吐くと、とぼとぼと校門を潜った。 廊下を歩いていると土浦の姿を見つける。 「おはよう梁太郎くん」 「おはよう。ね、土曜日なんだけれど、一緒に練習出来るかな?」 香穂子がいつもと同じ笑顔で明るく言うと、土浦は困ったように顔をしかめた。 「…ごめん。週末は外せない用があるんだ。練習を一緒に出来ない。アンサンブルを一緒にやるやつを誘ってくれないか? マジで」 「…うん。解ったよ…」 香穂子は沈んだ気持ちを悟られたくなくて、何とか笑顔で土浦を見つめた。 「じゃあ授業だから行くな」 「うん。ごめんね」 香穂子は土浦に手を振りながら、唇を噛み締めた。 まだ付き合い始めたばかりなのに、どうしてこんなにもよそよそしくなってしまったのだろうか。 クリスマスから付き合い始めて、初詣ぐらいしかデートらしいデートもしたことがない。 なのに土浦は泣きたいほどに、素っ気無い。 他に好きなひとが出来てしまったのではないかと、香穂子は不安になっていた。 土曜日はひとりで練習をする。 楽譜は弾きこなせるようになり、アンサンブルも順調に音合わせが出来ている。 音楽では沢山明るいことがあるのに、恋心が苦しくて、どうしても切なくなる。 香穂子が練習を終えて帰ろうとした時だった。 「日野君、練習の帰りかね?」 声を掛けられて振り返ると、そこには吉羅暁彦がいた。 |