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「吉羅理事長…」 「ひとりで練習かね」 吉羅は車に凭れかかり、クールなまなざしで香穂子を見つめている。 「はい。終わって帰ろうかと思っていたんです」 香穂子は素直な笑顔を浮かべると、吉羅を見つめる。 「だったら時間はあるかね?」 「はい」 「築地の寿司屋に予約を取っておいたのだが、急に連れが行けなくなってね。君さえ良ければ、一緒に来ないかね?」 「有り難うございます。ぜひ、ご一緒させて下さい」 香穂子は急にこころが明るい気分になり、にっこりと微笑む。先ほどまで暗い気分だったのが、嘘のようだ。 吉羅は車の助手席のドアを開けて、さり気なくエスコートしてくれる。その仕草が嬉しかった。 香穂子が乗り込むと、吉羅はステアリングを握り、優雅に車を発進させる。 「新鮮なネタを食べさせてくれるところだから、楽しみにしていたまえ」 「はい、楽しみです」 香穂子はにっこりと微笑みながら、吉羅と車窓に流れる風景を交互に見つめた。 ベイブリッジを渡り、都内へと車を走らせる。紫だちたる夕焼けが麗しくて、香穂子はうっとりと眺めた。 ちらりと吉羅の横顔を見つめる。ステアリングを握る姿がとても艶があり、魅力的に映る。 見つめているだけで、香穂子の鼓動は激しく高まっていく。 喉がからからになってしまうほどにときめいてしまい、香穂子は酔いそうになる。 土浦を見つめている時もドキドキはするが、種類が違うときめきなのだ。 香穂子は耳の後ろが熱くなるのを感じながら、吉羅を見た。 不意に吉羅が怪訝そうにこちらを見つめてきたものだから、香穂子は思わず、視線を逸した。 ドキドキし過ぎておかしい。 香穂子は初めての緊張に、戸惑いを覚えていた。 築地の寿司屋はかなり高級店で、香穂子は遠慮してしまった。 だが、吉羅が「好きなものを頼んで良い」と言ってくれたおかげで、少し楽な気分で寿司を選ぶことが出来た。 本当に美味しくて、幸せ過ぎて笑みを零す。 吉羅が大人の男のスマートな作法で食事をしていたのが、とても素敵に思えた。 香穂子はまだまだマナーというもののを理解出来てはいないから、良い勉強にもなる。 吉羅から寿司についての話を色々と聞きながら、またひとつ勉強になったと思う。 美味しくて、楽しい時間は直ぐに過ぎ去り、香穂子は名残惜しい気分になった。 横浜までの車中は、夜景を楽しみながらのドライブになった。 「…今日は有り難うございました! 本当に美味しかったです」 「それは良かった。少しは元気になったかな?」 「それはもう」 「だったら良かった」 吉羅は僅かに口角を上げて微笑む。 香穂子が落ち込んでいたことを、吉羅は総てお見通しだったのだ。だからこそこうして誘ってくれたのだ。 さり気ない吉羅の優しさに、香穂子は泣きそうになる。 「…有り難うございます…。理事長…」 香穂子が洟を啜りながら言うと、吉羅はフッと優しい笑みを浮かべる。 「君にはコンミスをしっかりと務めて貰わないといけないからね。気分転換をさせるのは、私の仕事のひとつだからね」 すこしばかり捻くれた言葉に、香穂子は苦笑いを浮かべる。 だが本当に嬉しかった。 吉羅と一緒にいると、切ない気分が総て吹き飛んでしまうような気がする。 香穂子は吉羅に感謝しながら、にっこりと微笑んだ。 「…ただより高いものはないからね。君もしっかりと励みたまえ」 吉羅の言葉に、香穂子は爽やかに笑った。 土浦のいない週末も、香穂子は楽しく過ごすことが出来た。 きっとこれも吉羅のお陰だ。 普段はクール過ぎるぐらいに冷たいのに、こんなにも温かい気遣いが出来るひとだ。 香穂子は温かな気分でヴァイオリンを弾き終える。 かなり調子が良い。 それに吉羅のために、良い演奏をしたいと思った。 「日野君、練習にせいが出るね」 クールで深みのある声に、香穂子は笑顔で振り返った。 「吉羅理事長」 「かなり頑張っているようだね。良いことだ。私の計画のために、君には頑張って貰わないといけないからね」 吉羅の冷たい雰囲気がする唇が僅かに上がる。 「理事長就任式の演奏、頑張りますね。満足して頂ける演奏になるように」 「ああ」 吉羅は頷くと、香穂子を見つめる。 「今日は随分とすっきりとした顔をしているね」 「昨日の気分転換が効いたみたいです」 「それは、良かった」 吉羅は微笑むと、空を見上げる。 「ドライブに行かないか? 君さえ良ければだけれどね」 「行きます!」 香穂子は明朗な返事をすると、満面の笑みを浮かべる。 「では気分転換にでも行こうか」 「はい」 香穂子が元気よく返事をすると、吉羅はフッと微笑んで目を細める。いつものクールな瞳がほぐれて甘くなった。 なんて甘美な微笑みなのだろうかと、香穂子は思う。 大人の男性の優美さに、香穂子のこころは甘く蕩けた。 「さあ行こうか」 「はい」 香穂子は吉羅の後にゆっくりと着いていく。 ドライブなんて、とても素敵な気分転換なのだろうと思う。 吉羅の車に乗り込むと、香穂子はわくわくしながら車が出るのを待つ。 吉羅はステアリングをしっかりと持ちながら、ゆっくりと市街地を走り抜ける。 「海と山。ドライブ先はどちらが良いかね?」 「山です。海はいつも見ていますから」 「解った」 市街地を走り抜けていると、不意に道を歩く土浦の姿を見掛けた。その横には、都築がいる。 香穂子は胸がチクリと痛むのを感じた。 だが、この間ほど胸が痛まないのは、恐らく吉羅暁彦が一緒にいるから。 吉羅が側にいるだけで、胸の痛みは抑えられた。 土浦は都築と逢うから、香穂子の誘いを断ったのだろうか。 都築の指揮するオーケストラのコンミスになると言った時の土浦の表情を思い出す。 「都築さんって、指揮科の都築さんだよなっ! すげぇよ。あのひと、王崎先輩と同級生で、ピアノで学内コンクールにも出たんだぜっ!? で、惜しくも2位だったらしいんだけれど、その後、指揮科に行って頭角を現しているらしい。ものすごいひとだぜ」 土浦が興奮ぎみに語っていたところをみると、憧れの女性なのだろう。 香穂子がぼんやりとしていると、不意に吉羅が声を掛けてきた。 「どうしたのかね、日野君」 「…何でもありません」 香穂子は吉羅に心配をかけないように微笑むと、流れる景色を楽しむことにする。 今は都築と土浦のことは忘れてしまおう。 吉羅が折角の気分転換をくれたのだから。 「楽しいかね、ドライブは」 「凄く楽しいですよ、ドライブ。本当に」 香穂子はにっこりと微笑むと、吉羅を見る。 「景色も楽しめるのは勿論のことなんですけれど、理事長の運転姿を見るのがとても嬉しいです」 「そんなに楽しいのかね?」 「はい! 理事長が運転する姿ってなんか様になっているっていうか。見ていて楽しいんですよ。本当に。吉羅理事長が運転している姿を見ていると、飽きないというか…。飽きる程見てはいないんですけれど。見るのは大好きです」 香穂子がほんのりとはにかんだ気分で呟くと、吉羅が今まで見たことのないような笑顔になる。 「有り難う」 「私こそです。気分転換有り難うございます」 車は山に向けて走り抜け、やがて夕焼けを見るのに良い時間になった。 吉羅とふたりで車を降りて、見事な夕焼けを見つめる。 夕陽が吉羅の整った横顔を照らして、とても綺麗だ。 香穂子は吉羅の横顔を見つめながら、息が詰まる程の甘い緊張を覚えた。 |