*恋のゆくえ*

3


 吉羅のお陰で、楽しい週末を送ることが出来た。
 温かな励ましに、香穂子は泣きたくなるぐらいに嬉しいと感じる。
 あのままだったら、かなり酷い週末の過ごし方になってしまっていただろうが、終わってみれば充実した週末だった。
 やる気も沢山充電することが出来た。
 吉羅がいたから。
 吉羅が香穂子のこころを温めてくれたのだ。
 教室に入ると、香穂子はいつものように授業を受ける。
 いつも以上に充実した時間を過ごすことが出来た。

 昼休みに教室でお弁当を食べていると、土浦がひょっこりと顔を出した。
「香穂、少しだけ時間を貰えないか?」
「良いよ」
 土浦の顔を見ていると、こころの底から痛みが上がってくるような気分になる。
 切なさを通り過ぎてかなり痛い。
「香穂、アンサンブルは上手くいっているのか? 俺が忙しいから、お前は他のメンバーとやらなければならなくなって、申し訳ないと思っている」
「心配しないで順調だから。梁太郎くんのほうの勉強は捗っている?」
「ああ。なんとかな」
 土浦は微苦笑すると、髪をかきあげる。
「お互いに頑張ろうね。私も三月までめいいっぱい頑張るから」
「ああ」
 香穂子がわざとらしい笑みを浮かべると、土浦は安心したのかホッとしたような笑みを浮かべる。
「お前の笑顔を見たら、癒された。有り難うな」
「うん」
「じゃあ、俺はまた勉強に戻る。都築さんの紹介で、大学の図書館に出入り出来るようになって、沢山指揮の本を借りてきたんだよ。だから、しっかり勉強しないといけないからな。頑張るな」
 都築。
 その名前を聴いただけで香穂子の胸は痛くなる。
 本当は言いたい。
 昨日、都築と一緒にいたところを見たと。
 だが、そんなことは言えなくて、香穂子は泣きそうになった。
「じゃあまたな。香穂も頑張れな」
 土浦は香穂子の頭をそっと撫でる。温かなそれが、今はとても切なかった。

 放課後、初めての定期チェックを理事長室で受ける。
 吉羅と都築の厳しいまなざしの前で、香穂子はヴァイオリンを奏でた。
 吉羅のまなざしはクールではあるが、その奥には温かな気持ちがあることを、香穂子はよく解っている。
 だからこそ、見守られているような気分になって、ヴァイオリンを奏でることが出来た。
 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅と都築が頷いてくれる。
「日野さん一週間で随分と上達したわね。それにオーケストラのメンバーを集めるのも順調だと聴いています。よく頑張っているわ。この調子で頑張って」
 都築は艶やかな声で言うと、香穂子に向かって笑みを浮かべてくれる。
 紅いルージュの似合う美しいひと。女の香穂子から見ても、ドキリとしてしまう。
 思わず見入ってしまっていると、都築が怪訝そうにこちらを見つめてきた。
「日野さん?」
「何でもありません。有り難うございます、都築さん」
 その後に吉羅が続く。
「…君は一日ごとに上手くなっていくね。この調子で頑張ってくれたまえ」
 吉羅は淡々と話したが、その瞳はいつもよりも優しくて甘かった。
 こうして少しでも上達が出来たのは、吉羅のお陰だ。
 週末に気分転換をしてくれたから、香穂子がこうして笑顔でヴァイオリンを奏でられるのだ。
「理事長、有り難うございます」
 香穂子は吉羅に深々と頭を下げると、こころからの感謝を笑顔に託した。

 定期チェックの後は、いよいよアンサンブルの完成度を高めていく。
 もうこれ以上は上がらないところまで高めたところで一日が終わった。
 同時に今日は沢山オーケストラのメンバーが集まって良かったと思う。
 香穂子は一日の疲れを癒すように、ファータショップに顔を出した。
「リリ、いる?」
「日野香穂子! 待っていたぞ! 今日の演奏は本当に良かったのだ! ファータたちは喜んでいた!」
「有り難う」
 リリの称賛が嬉しくて、香穂子は笑顔を零す。
「ねえ、理事長にお礼をしたいんだけれど、何か好きそうなものはあるかな?」
「吉羅暁彦のことなら任せてくれ。だったら蓮華が良いぞ。あいつは茶粥が大好きなのだ。この蓮華で食べるときっと喜ぶと思うのだ!」
 茶粥が好きだなんて、随分と渋いと思いながら、香穂子はリリがお勧めをするものを買う事にした。
「…これが良いかもしれないね。有り難うリリ」
「どう致しましてなのだ」
 丁寧に包装がされた蓮華を受け取ると、香穂子はほわほわと幸せな気分になった。
 理事長就任式が終われば、これを渡そう。
 だが、きっと理事長就任式でのアンサンブルの成功が、吉羅への何よりものプレゼントになると、香穂子は思っていた。

 いよいよ理事長就任式だ。
 就任式には、草色のドレスを着ようと、始めは思っていた。
 だが、今はそれを着ることが出来ない。
 土浦の好きな色のドレス。
 あんなことがなければそのまま素直に着ていたかもしれない。
 だが、今はそれが出来ないような気がする。
 香穂子は白いドレスを選択し、それに身を包むことにした。
 今はそれしか出来ないから。
 理事長就任式は学院の講堂で行われ、香穂子はいつものように楽屋で出番を待っていた。
 良い演奏が出来るように。
 ただそれだけを今は心掛けよう。
 邪念を払い、純粋な演奏が出来れば香穂子はそれで良いと思っていた。
 香穂子は、吉羅への恩返しも込めて、こころを音に乗せた演奏を始める。
 吉羅には、昨日よりも成長していると思って欲しかった。
 白いドレスは、その決意の現れでもある。
 ただ清らかで温かな音を、香穂子は奏でた。

 理事長就任式の演奏が終わると、かなり好評で、香穂子もかなりホッとした。
 吉羅の理事長就任パーティに向かい、会場の隅で仲間たちと談笑していた時だった。
 香穂子は冷たくも厳しいまなざしに気付いて、顔を上げる。
「ここに普通科でコンミスに選ばれた生徒さんがいると聞いたけれど、どなたですか?」
 理事のひとりの慇懃無礼な声に、香穂子は怯むことなく名乗り出た。
「私です」
「あなたは普通科の素人だというじゃありませんか? あなたよりも実力のある生徒は沢山います。あなたに コンミスをさせるなんて、星奏学院の恥になります」
 凶器のような冷たい言葉に香穂子が怯みそうになった時、広い背中が守るように立ちはだかってくれた。
「お言葉ですが、私は彼女がコンミスを務めることが出来ると判断して、指名したんです」
 冷たさを帯びた低い声の持ち主は吉羅暁彦だ。
 広い背中に、香穂子は安堵して泣きそうになった。
「今日、就任式で彼女はアンサンブルで素晴らしい演奏をしましたが、お聴きになられませんでしたか?」
 吉羅の言葉に、理事のひとりは言葉を詰まらせる。
「そんなに上手いのであれば、今、ここで演奏出来る筈でしょう。一曲、演奏して貰いたいものですね」
 理事のひとりが香穂子を値踏みするように見つめてくる。
「解りました。演奏します」
 香穂子は背筋を伸ばすと迷うことなく呟いた。その様子を吉羅が見つめ頷いてくれる。
「梁太郎くん、ピアノ伴奏をお願いして良いかな?」
「解った」
 土浦は優しい笑顔で頷くと、香穂子のためにピアノの前に座ってくれた。
「ベートーベンの“優しき愛”を」
「解った」
 土浦は頷くと、演奏を始めてくれる。
 最も弾きやすいピアノ。
 香穂子のことを解ってくれるピアノだ。
 香穂子は落ち着いた気分で、ヴァイオリンを奏でた。
 タイトルと同じように、誰もが優しき愛に包まれるように。
 音に想いを込めた。



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