*恋のゆくえ*


 土浦のピアノ伴奏でヴァイオリンを奏でる香穂子の音色は、穏やかな愛に満ち溢れている。
 温かく、タイトル通りの優しい愛が感じられる。
 こころに柔らかく響くヴァイオリンの音色は、吉羅のこころを切なくさせる。
 これが恋をした者同士の音色なのだ。
 甘くて澄んだ音色は、吉羅の気持ちを酸っぱくさせる。
 敵うことのない愛ですらも、穏やかに受け止めてくれるような音色だった。
 香穂子が誰に恋をしているかは解っている。
 だからこそふたりの姿は苦かった。
 見守ることがただひとつの愛の表現である吉羅にとっては、これ程辛いものはなかった。
 だが良い音色だ。
 自分には決して出させてはやれない音色だ。
 吉羅は静かにヴァイオリンに耳を傾けながら、そっと目を閉じた。
 香穂子と土浦のコラボレーションが終わり、会場からは温かな拍手が沸き上がる。
 ふたりは本当に嬉しそうに微笑みあい、恋という名前の温かな感情を確かめあっている。
 吉羅はフッと視線を伏せると、ふたりを見つめるのを止めた。
「…これだけでは、彼女がコンミスに相応しいかどうかは判断出来ません」
 また、煩いメギツネが馬鹿なことを言っている。
 吉羅は溜め息を吐くと、理事たちを見た。
 香穂子がこちらにやってきて不安そうに見ている。
 守ってやらなければならないと思った。
 まだ才能は芽吹いたばかりなのだから。それを踏み付けるなんてことは、許さない。
「でしたら、アンサンブルコンサートを開くのはいかがでしょうか? 彼女の調整力の高さや、ヴァイオリンの素晴らしさをじっくり堪能して頂くには、私はそれが一番だと思いますが」
「…そうですね。それが良いかもしれませんね」
 理事たちが次々に頷く。
 吉羅は香穂子にクールな視線を向けた。
「…どうかね、日野君」
 これはある意味日野香穂子にとってはかなりのチャンスなのだ。だからこそ、それを活かして欲しいと、吉羅は思う。
「…解りました。お受け致します」
 香穂子は幾分か緊張したかのように言ったが、その瞳には決意が漲っていた。
 吉羅は、香穂子の気持ちを受け止めるように頷く。
「だったら決まりですね。条件はこちらから提示します。よろしいですね」
「解りました」
 たとえどのような条件であったとしても、日野香穂子は乗り越えるに違いないと、吉羅は思った。
 理事たちが行ってしまった後、香穂子は緊張をほぐした笑顔を吉羅に向ける。
「有り難うございます、理事長。頑張りますね」
「ああ。頑張ってくれたまえ」
 吉羅が頷くと、土浦は軽く睨み付けてくる。
「…理事長がからむと、いつでも厄介なことに巻き込まれる…」
 土浦が吐き捨てるように言うのを、吉羅は受け止める。
「私は日野君が出来ると信じて、彼女をコンミスに任命をした。それだけだ」
 吉羅は淡々と、だが些かクールに呟く。そこには土浦をけん制する意味合いが含まれていることを、香穂子は感じ取ってはいないだろう。
「梁太郎くん、私、頑張るよ。これはチャンスかもしれないんだし」
 香穂子は前向きなまなざしをきらきらさせている。それが眩しくてしょうがなかった。
「しかし…」
 土浦はあくまでも認めようとはしない。香穂子を想う余りに複雑な感情が噴出しているのだろう。
 香穂子は困った顔をしているのが、とても可愛く思えた。
 ふたりで話をしたい。
 きちんと言えば、香穂子は解ってくれるだろうから。
「日野君、少し良いかね。土浦君、日野君を少しだけ借りるよ」
 吉羅は香穂子を連れて、レセプション会場を一旦出た。
「今日のアンサンブルは素晴らしかった」
「有り難うございます」
 香穂子はホッとするのと同時に、何処かはにかみを浮かべていた。その表情が愛らしくてそそられる。
「私のことを恨んでいるかね?」
 吉羅の言葉に、香穂子は驚いたように息を呑む。何処か困惑すら感じられた。
「…そんなこと…考えてもみませんでした…」
「それは良かった。私は、君が成し遂げることが出来ると思ったからこそ、コンミスに指名した。私もそこまで馬鹿ではないからね。リスクを背負うことが最も嫌いだからね。君も知っているとは思うが」
 吉羅は、視線の奥に愛情を隠して、静かに鋭く微笑む。
「理事長…」
「…君はファータに愛されてしまった。あれに愛された以上、音楽の祝福を受け、その道を歩いていかなければならない。音楽の道は険しい。君ならばそれを乗り越えて行けると、私は信じているよ。だからこそ君にあえて試練を与えた」
 吉羅は、香穂子を信じる気持ちを瞳に乗せて、見つめた。
 その気持ちを汲んでくれたのか、香穂子は力強く頷いてくれる。
 凜とした瞳は、決意が秘められている。吉羅はそれが嬉しくてしょうがなかった。
「日野君、君の奇跡を私に見せてくれたまえ。君から美しい奇跡を見せてくれるだろうから」
 吉羅は香穂子の頬に触れる。
 柔らかで滑らかな頬に、吉羅は胸が苦しくなった。
 この柔らかさは決して自分のものじゃない。
 そう想うと胸が詰まるように痛んだ。
「理事長、私、頑張ります。理事の皆さんに、コンミスだと認めて頂けるように、私…しっかり頑張ります」
 決意を秘めながら吉羅を見つめる香穂子の瞳は、凜としていて、とても綺麗だ。
 見つめているだけで甘く切なくなる。
 手を伸ばしても、届かない相手だからだろうか。
 他の者を想う瞳だからだろうか。
 それがとても美しいからだろうか。
 吉羅は、香穂子の瞳のなかに永遠を見出すように見つめた。
 奪うなんて出来ない。
 この瞳を哀しみに曇らせることなんて、吉羅には出来るはずもなかった。
 その瞳が暗く嗅げれば、きっと吉羅の世界にも太陽はささなくなるだろうから。
「日野君、これからもしっかりと励みたまえ。私は君に期待している。君には私のために大いに働いて貰わなければならないからね」
 わざとらしく硬い声で呟いた後で、吉羅はフッと静かな笑みを浮かべた。
「話はそれだけだ。パーティを楽しみたまえ」
「はい、有り難うございます」
 香穂子は笑みを浮かべると、深々と頭を垂れた。
 吉羅に背中を向けて、香穂子は迷いなく真っ直ぐ土浦に向かって歩いていく。
 恋をする者のはにかんだ笑みを持って。
 その笑みは自分のものではないと思い知らさせているような気がして、吉羅は唇を噛み締め、背中を向けた。

 広い背中に、思わず縋りたくなった。
 あの背中に守られれば、何も怖いことなんてないのではないかと思う。
 出会った時は、冷徹なひとだと思っていた。
 合理的で利益主義者だと思っていた。
 自分のために働けと言っておきながら、香穂子を不快なものから守ってくれたり、無理難題を押しつけたりしないことにも気がついた。
 あの背中に縋ればどんなに楽なのだろうかと、香穂子は思う。
「…香穂?」
 土浦に声を掛けられて、ハッと我にかえる。
「な、何、梁太郎くん?」
「余りさ、理事長のことを信頼しないほうが良いんじゃないか? あのひとは利益のためには非情になれる。お前が用済みになれば、直ぐにでも手を引くだろうし」
「そんなことはないよ…」
 香穂子は声を硬く震わせながら呟く。
 土浦の言葉には同意することが出来なかった。
「…理事長は、そこまで冷徹ではないよ…」
「お前に無理難題ばかり吹っ掛けるじゃないか。俺には到底信頼出来ない」
 キッパリと言い切る土浦の肩は、僅かに強張り、香穂子の胸はまた痛んだ。



Back Top Next