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こころがすれ違っていく。 お互いのこころがかたくなになっていることを、否定出来ない。 胸の奥底がまたチクリと痛む。 近付こうと懸命になっているというのに、どんどん離れてしまっているような気がする。 香穂子が唇を噛み締めていると、艶やかなコロンの匂いがした。 「ふたりとも見事な演奏だったわ」 色香のある声に顔を上げると、そこには落ち着いたたたずまいの都築がいた。 「有り難うございます、都築さん」 香穂子が笑顔で礼を言うと、都築は受け止めるようにしっかりと頷いてくれる。 その笑みに、香穂子は思わずつられるようにまた笑った。 ちらりと横にいる土浦を見る。 確かに憧れのまなざしで都築を見ているのは事実だが、それだけだ。そこに恋愛感情がないのは解っている。 なのに胸が痛い。 ふたりが交わす視線には、香穂子が知らない意味が含まれているような気がしてたまらない。 ひょっとして自分だけが気付いていないだけなのかもしれない。 それだったらこんなにも切ないことはないほどだ。 息苦しい。 ふたりを見つめているだけで。 「ふたりともとても息があった演奏をしていたわ。温かな感じが出ていて良かったわ。それを聞き取ることが出来ない理事たちの耳の悪さも、どうかと私は思うけれどね」 フッと理事たちを小馬鹿にするように笑うと、都築は香穂子たちを見た。 そのまなざしには、信頼という名前の光が宿っている。 「…ふたりともこれはチャンスだと思ってやり遂げるのよ。アンサンブルの調整を行なうのは、コンミスとしてとても勉強になるだろうし、土浦君も指揮者を目指すのならば、様々な楽器を活かす演奏をしたり、楽器の特性を知るのに、良い勉強になると思うから、しっかりね」 「はい。頑張ります」 ふたり揃って笑顔で頷くと、都築もまた笑顔で頷いてくれる。 音楽が三人の絆をより硬いものにしてくれる。 だが、恋心が行き場がなくなっているような気がする。 行き場のない切ない想いが、三人の間でぐるぐると巡っているようで、香穂子は苦しかった。 理事長就任式パーティの帰り、香穂子は土浦とふたりで手を繋ぎながら家路を辿る。 「今日は凄く勉強になった。益々、これから頑張らなければならないって思うぜ。今は指揮の勉強でいっぱいだけれど、アンサンブルにも参加するから、声を掛けてくれ」 「うん。有り難う。指揮の勉強も頑張ってね」 「ああ。しっかり頑張って、直ぐに追いかないとな。音楽科の連中にも、都築さんにも」 「無理しないで頑張ってね」 「ああ。有り難う。お前もあんまり無理すんなよ。あんな横暴な理事長の言うことばかりを聞いていたら、お前の躰がもたないぜ」 土浦はあからさまに眉をひそめる。クリスマスコンサートまでの経過を考えれば、土浦の態度も分からなくはない。だが、吉羅が本当は大きくて優しいまなざしで見守ってくれることを、どうか知っていて欲しいとも思う。それはわがままなのだろうか。 「うん、無理せずに頑張るよ。だけど、無理難題を吹っ掛けられているわけではないから、心配しなくても大丈夫だよ。ちゃんとやり遂げてみせるから」 香穂子が凜として笑うと、土浦も降参とばかりに笑みを零す。 「ああ。頑張れよ。だが、俺の前では弱音を吐いて良いからな」 「大丈夫だよ」 香穂子は笑顔で言ったが、本当は弱音を少しでも零してしまったら、土浦に軽蔑されるような気がして言えなかった。 だから頑張るしかない。 前向きに今は頑張ってやるしかないのだ。 話していると、直ぐに自宅にたどり着く。 「じゃあ、明日からもお互いに頑張ろうぜ」 「うん。お互いの目標のために、前向きに頑張って行こうね」 香穂子が笑顔で言うと、土浦もまた頷く。 「じゃあな。また明日学校で」 「うん」 土浦がゆっくりと家から遠ざかっていく。 スポーツマンらしい精悍な背中を見つめながら、香穂子は胸が痛くなる。 まるで土浦のこころが、自分から離れていってしまうような気がして、堪らなかった。 部屋に入ると、安堵の余り溜め息が出る。 明日から、また前向きに頑張って行かなければならない。 コンミスをきちんと務めるためには、努力をしなければならない。 その努力ですらも、努力だとは思えない。今回のことは、楽しさの向こうにあるチャンスに過ぎないのだ。 香穂子は明日から練習に励む楽譜の整理をしながら、ふと頬に触れた。 吉羅が触れた頬。温かな手だった。 大きくて、香穂子の総てを包み込んでくれるような手だ。 あの手に触れられただけで、甘いときめきと何処か安逸を感じられた。 吉羅の期待に応えるためにも、明日から頑張らなければならない。 香穂子は自分自身を奮起させるように、何度も頷いていた。 昼休みに理事長室に呼び出され、今回のアンサンブルの概要を聞かされた。 理事長就任式よりもかなりハードルが高い、 だがやるしかないのだ。 これを成功させなければ、明るい未来を切り開くことは出来ない。 逆を言えば、ここで頑張れば、たとえ一縷であったとしても明るい未来が見えてくるのだ。 吉羅は厳しい表情で過酷な条件を突き付けた後、ほんの僅かだけ瞳に笑みを浮かべてくれる。 「オーケストラメンバーを集めなければならない上に過酷な条件ではあるが、頑張ってくれたまえ。君ならやり遂げることが出来るはずだ」 「頑張ります」 吉羅と都築を交互に見つめると、そこには香穂子への信頼と期待が現れたいる。 頑張らなければならない。 なんとしてでも、成し遂げなければならない。 香穂子は信頼に応えるために更なる努力をしなければならないと思う。 自分自身のためにやらなければならない当然のことだ。 香穂子が様々な感情に頭をぐるぐると巡らせていると、吉羅が声を掛けてきた。 「日野君、音楽面では都築君に一任をしているが、それ意外のことで何か不都合が生じるなら、遠慮なく言って欲しい。良いね」 吉羅はいつも通りにポーカーフェースで事務的に呟く。だが、その奥に隠れた優しさを感じて、香穂子は思わず笑みを零した。 「有り難うございます。理事長と都築さんの優しさや温かさに応えられるように、頑張ります」 香穂子が元気溢れる声で言うと、吉羅はクールな瞳の周りをほんの少しだけ紅く染め上げる。 その表情を見て、香穂子は可愛いとすら思ってしまう。 「それでは行きたまえ、日野君」 「はい。有り難うございました」 香穂子は機嫌良く挨拶をすると、理事長室から出た。 笑顔が零れるのは、きっと吉羅のお陰だと香穂子は思う。 あのように励ましてくれなければ、きっと今のように笑うとことは出来なかった。 吉羅が大きく温かく見守ってくれていたからだ。 その恩返しのために、香穂子はヴァイオリンに総てをかけて頑張れば決意をした。 校庭でヴァイオリンを弾き終わると、厳しい表情をした音楽科の生徒が近付いてきた。 「日野さん、その程度でコンミスが務まると思うのは間違いよ。辞退なさいよ。音楽科にはあなたよりもコンミスに相応しいヴァイオリニストがいくらでもいるのよ」 厳しい言葉にも、香穂子は唇を噛みながらも耐え忍ぶ。 そんなことは、言われなくても自分が一番よく解っているのだから。 「私は私の持てる力で頑張るだけ。実力はないのは解っているから、それを埋めるためにいっぱい頑張る。それだけだよ。ヴァイオリンに恥じないようにしたいだけだよ。だって、ヴァイオリンが好きだから」 香穂子の言葉に、音楽科の生徒は言葉を一瞬失い、白くなるほどに拳を握り締めていた。 |