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ヴァイオリンが好きだから、どのような努力も惜しまないと、遠い昔に言ったひとを、吉羅は思い出していた。 あのひとと香穂子を重ねてしまう。 吉羅は、香穂子と音楽科生徒の小競り合いをする前に、たまたま通り掛かった。 吉羅は木の陰で、事態の推移を見守っていた。香穂子なら、自分でどうにか出来ると思っていたからだ。 吉羅が見込んだ以上に、香穂子は精神的に強い。 香穂子からごく当たり前のように出された言葉に、相手は完全に圧倒されていた。 負けだ。音楽科生徒の。完敗と言っても良い。 「あなたはコンミスを辞退しないと言うのね?」 香穂子は静かにごく当たり前に頷くだけだ。 「…恥をかくのはあなただけではなくて、学院全体であることを、忘れないことね」 悔し紛れの言葉に、吉羅は鼻で笑うしかない。香穂子には敵わないことを、心の奥底で認めているのだろう。 「恥をかかないように私は頑張るだけだよ。忠告有り難う」 さらりとした香穂子の言葉に、最早、次の言葉を言い出せないままで、音楽科生徒は立ち去った。 生徒が行ってしまった後で、香穂子はほどしたように溜め息を吐いた。 「…君は随分と強いんだね。関心したよ」 吉羅は静かに香穂子の前に顔を出した。 「…理事長…」 香穂子は笑うことも出来ずに、ただ振り返る。 吉羅は香穂子を柔らかな瞳で見つめてくる。 「強くはないです。慣れているだけです」 香穂子は苦笑いを浮かべた後で、視線を少しだけ下げた。 「…コンクールの時も色々ありましたから。そんなことを気にしてたらしょうがないですし」 香穂子は視線を空に向けて、屈託なく呟く。それを吉羅は眩しそうに見つめてくる。 「結構だ。外野は気にしなくて良い。君がコンミスに相応しいと思ったから指名したまでだ。出来ると思うがね、私は。だが、それは君が努力をすればと言うことだがね」 吉羅の言葉は厳しい。だが、どこかそこに優しさを感じるのは、幻なのだろうか。 「せいぜい頑張ってくれたまえ。何か不具合があれば、直ぐ言いなさい。良いね?」 「はい」 香穂子は吉羅の背中を見送りながら思う。 もっとこの男性が知りたい。 それが甘い感情の一歩であることは、気付いてはいなかった。 放課後の練習を終えて、香穂子が学院の門を潜った時だった。 少し前を見慣れたシルエットが歩くのに気付く。 土浦と、そしてその横には都築がいる。 ふたりには恋をしているような甘い雰囲気は感じられなかったが、同じ高みを目指す者たちが交わす前向きな雰囲気が感じられた。 内容は聞こえなかったが、土浦が楽譜を片手に話しているのを見ると、音楽の話に熱中しているのだろう。 香穂子には見せない、玩具に夢中になる少年のような顔だ。 とても魅力的で、香穂子は寂しい想いを胸に抱く。 香穂子はふたりを視界から消したくて、わざと公園に入った。 ふたりが行っただろう時間を見計らって、自宅へと戻る。 こころは沈むばかりで、香穂子は唇を噛み締める。しょっぱい気持ちを表すような味がした。 デートらしいデートなんてしたこともないままで、このままふたりの仲は消滅してしまうのだろうか。 そんな不安が、香穂子を覆い尽くす。 「香穂!」 香穂子がひとりで登校していると、天羽が元気溢れる声で呼び止めてくれた。 「おはよう、菜美」 「ねえ、もう直ぐ春節でしょう? コンクール仲間のみんなでさ、中華街に行こうかって話をしているんだけど、香穂もどうかな?」 「春節かあ。楽しいかもしれないね」 気分転換には最高だと思う。それに仲間と一緒ならば、土浦とギクシャクした気分で過ごすことはないだろう。 「参加しようかなあ」 「うん! 土浦くんにも参加するように促してあるからさ」 なるべくさらりとした声で天羽は言うと、ほんの少しだけ切ない笑みを浮かべた。 「…最近さ。香穂と土浦くんって、何処かギクシャクしていたじゃない? これを機会にさ、仲直りというか…、まあ、すれ違いの解消をしたほうが良いかなあって…」 天羽の気遣いに、香穂子は泣きそうになる。 友人の気遣いはとても有り難くて温かい。 「有り難う、菜美」 「私が手を貸せるのはここまでだから、後はふたりで逢えば、きっと誤解はとけるよ」 「そうだね」 香穂子は友人の優しさが嬉しくて、泣き笑いの表情を浮かべた。 「香穂、あんたさ、土浦くんのことを気遣い過ぎているよ。一方的に相手が気遣うなんて、アンバランスだよ。一緒にいたいと素直に言えば、きっと解ってくれるよ」 「そうだね。有り難う…」 菜美をこのまま抱き締めたいと思う気持ちを抱きながら、満面の笑みを浮かべた。 「楽しもうね」 「うん!」 親友の優しさを汲んで、沢山楽しまなければと、香穂子は強く思っていた。 土曜日が巡ってくる。 秋頃は、土浦と過ごす楽しい練習時間だった。 あの頃は、空から舞い降りる陽射しと同じように、温かく穏やかな時間を過ごしていた。 だが、今はたったひとりだ。 目標に向かってコツコツと努力をする日々が続いている。ひとりで練習をするのは、コンクールで慣れてはいるから平気だ。 だが、一度味わってしまった、大好きなひとと音を合わせるという行為は、まるで麻薬のように香穂子のこころを支配していた。 また一緒に練習がしたい。 あのピアノでヴァイオリンを弾きたい。 その想いが強くこころにこだましていた。 香穂子は駅前通りでいつものようにヴァイオリンを弾く。 バレンタインデーに開催されるアンサンブルコンサートの曲目はほぼ固まりつつある。 後は、仲間たちと音を合わせて調和をはかる段階にきていた。 香穂子がヴァイオリンを弾いていると、すっかり見慣れたシルエットを見掛けた。 仕事帰りに、今日もヴァイオリンを聴きにきてくれたのだ。 最初は、香穂子の出来をチェックするために聴いていると思っていた。 だが、気分転換に連れ出してくれるようになってからは、そうでないことに気付いた。 純粋に香穂子を心配してくれていることを。 冷ややかな印象のあるひとだが、こころの奥底は温かいひとであることも知った。 だからこそ、こうして笑顔で吉羅に手を振ることが出来るのだ。 香穂子は、冬の幻想的な空気を纏った吉羅に駆け寄る。 「理事長! お疲れ様です」 「日野君、練習の成果はかなり出ているようだね。それは良いことだ」 「有り難うございます。バレンタインのアンサンブルコンサートは、しっかり頑張ります!」 「今のところ仕上がりは順調のようだね。良いことだ」 吉羅の瞳が柔らかい冬の陽射しに輝いて甘い。 このようなまなざしで見つめられてしまうと、心臓がいくらあっても足りないのではないかと思った。 耳の後ろのパルスが敏感なほどに震えている。 吉羅が大人の男性だからだろうか。それとも、別の意味があるというのだろうか。 どちつかずのままでドキドキとしながら、香穂子は吉羅を見つめた。 不意に香穂子の視界に土浦の姿が映る。 隣りにいるのは都築だ。 ふたりは本当に楽しそうに笑いながら、楽器店へと入っていく。 甘くて仲睦まじいとすら感じる。 ふたりを見ていると、まるでベストカップルに見えてしまう。 胸をナイフで深く抉られたような痛みに、香穂子は声が出なくなる。 香穂子から血色が消えた。 顔色を変えた香穂子に吉羅は怪訝そうに眉を寄せた後で振り返る。 何が起こったか即座に理解したようだった。 「日野君…、見たくないものは見なくて良いんだ…」 低い声が聞こえてきたかと思うと、背後から、吉羅の大きな手のひらで視界を隠される。 涙が一筋零れ落ちた。 |