*恋のゆくえ*


 吉羅の手のひらによって、何も見えない。
 優しい闇が香穂子の視界を包み込んでくれた。
 何も見たくない瞳を、癒してくれるかのようなヴェルヴェットの闇は、香穂子のこころに深く刻まれた傷を、少しではあるがリカバリーしてくれる。
 それが嬉しかった。
 暫く、肩を震わせながら、素直に泣いていると、吉羅が手のひらをそっと外した。
「涙を拭きなさい。少し休憩しようか」
 吉羅は、シックな色合いのハンカチを香穂子に差し出すと、涙をふくように促してくれた。
「有り難うございます、理事長」
 洟を啜りながら笑おうとしても説得力がない。
 香穂子は誤魔化すように笑いながら、涙をハンカチで拭った。
「少し遠出をしようか。今からだと、綺麗な海を見られるから」
「有り難うございます…」
 大人の男性の落ち着いた態度に感謝しながら、香穂子はそっと頷く。
 吉羅は、小さな女の子を見るように香穂子を見つめてくると、手をそっと繋いでくれた。
 幼い女の子にするのと同じ仕草だ。
 吉羅にとっての香穂子は、小さな小さな女の子なのだろう。
 だが、今はそれがとても嬉しかった。
 小さな女の子と同じ扱いでも良いから、こうしてケアしてくれる優しさが、何よりも嬉しい。
 吉羅は、香穂子を駐車場まで連れて行ってくれると、車に乗るようにと促してくれる。
 フェラーリの助手席が、こんなに温かくて優しいなんて思いもよらなかった。
 香穂子がシートベルトをしたのを見計らって、吉羅は車を出してくれる。
 今は少しでも早くここから逃げ出したかったから、とても助かった。
 香穂子はちらりと吉羅の横顔を見つめる。
 相変わらずのポーカーフェースで、取付くしまなどない。
 何も訊かずに、ただそばにいてくれる優しさが、香穂子のこころに染み透っていた。
 車は八景島へと向かい、海岸近くの駐車場に停められた。
「散歩でもするかね」
「…はい。有り難うございます」
 目が真っ赤になっているのに笑っても、全く説得力はないと思いながら、香穂子はわざと笑う。
 車から降りて、ふたりで海岸へと向かう。
 小さな子供のように吉羅は手を引いてくれる。
 それはあくまで子供をあやすための手段に過ぎないのは解っている。
 だが温かくて大きい手のひらに、甘えてみたくなる。
「何か飲むかね? 自動販売機で申し訳ないが」
「ミルクティーをお願いします」
「解った」
 吉羅は、香穂子には甘くて温かなミルクティーを、自分にはブラックコーヒーを買う。
「どうぞ。お嬢さん」
「有り難うございます」
 吉羅に買って貰ったミルクティーは、いつもよりも優しい味がする。香穂子の躰だけではなくて、こころごと温めてくれるような気がした。
 ミルクティーをちびちびと飲みながら、海岸へと下りていく。
 海を見ながらミルクティーを飲んでいると、また泣けてきた。
 洟を啜って誤魔化そうとしても、上手くいかない。
「日野君…」
「す、すみませんっ。あ、あのっ、大丈夫ですから」
 誤魔化そうにも誤魔化すことが出来なくて、また、涙がポロポロと零れ落ちてくる。
 鼻の奥がツンとしてしまい、誤魔化すことが出来なかった。
「日野君、ここには私しかいない。泣きたかったら泣けば良い。ここまで我慢することはないんだ。泣いてしまえば、感情が洗い流されてスッキリするだろうから」
「…理事長…」
 いつもは感情なく聞こえる吉羅の低い声が、今日はとても温かく聞こえる。
 それが胸に染み入って、香穂子は素直に泣くことが出来た。
「総て涙によって流してしまうんだ。気持ちを切り替えて、明日からまた頑張りなさい」
「はい…」
 それはごく自然だった。
 吉羅の腕が、香穂子の総てを包み込むように抱き締めてくる。
 大人の男性らしい落ち着きと華やぎのあるコロンの香りが仄かにして、胸が騒いだ。
 ギュッと抱き締められて、こころの中の弱い部分を守られているような気がして、泣けて来た。
 逞しい大人の男の胸。
 付き合っている土浦にすら、こうして抱き締めて貰ったことはない。
 安らぎを感じる胸に、香穂子は涙を零した。
 吉羅の大きな手のひらが、慰めるように髪を撫でてくれる。それだけで、胸がキュンと鳴る程のときめきを感じた。
 まるで子供のように、香穂子は吉羅の胸に縋って泣く。
 涙と共に、様々なマイナスの感情が流れ出していくのを感じた。
 吉羅は香穂子が泣いている間、静かに傍らに寄り添ってくれている。
 その静かな優しさが温かかった。
 香穂子は納得がいくまで泣いた後で、顔を上げる。
「有り難うございました」
 香穂子は吉羅を見上げて微笑みかける。吉羅はまだ心配そうに香穂子を見つめていた。
「大丈夫かね?」
「はい。こんな瞳の色をしていて説得力はないとは思いますが、大丈夫です。有り難うございます」
 香穂子のしっかりとした言葉に、吉羅は頷くとそっと離れた。
 吉羅の温もりが離れた瞬間、胸に痛みが走り抜ける。切なくて甘い痛みに、香穂子は息が出来なくなるほどに苦しくなった。
 どうしてこんなにも苦しいのかが解らない。
 唇を噛み締めてしまうほどに痛かった。
「日野君、気分転換に食事にでも行かないか? 君が食べたいもので構わないよ」
「だったら…温かいものが良いです…」
「解った。じゃあ温かいものを食べに行こう。鍋なんてどうかね?」
「お鍋は嬉しいです。有り難うございます」
 香穂子は満面の笑みを浮かべると、吉羅に頷く。
 もう大丈夫だと感じたのか、吉羅は手を繋いではくれない。それがほんの少しだけ切ない。
 あの手にずっと包まれていたかった。などと思うのは、許されない感情なのだろうか。
「吉羅理事長、有り難うございました。…その胸を貸して頂いて…」
 香穂子がはにかむように言ったが、吉羅は余り気に留めていない様子だった。
「泣きたい時はしっかり泣けば良い。それで感情の嫌な部分は流してしまえるから。だが、本当は、泣けない程の哀しみが厄介だ。泣けるうちは泣いてしまえば良いんだ」
 吉羅はあっさり言うと、一歩先に歩いていってしまう。
 泣けない程の哀しみ。
 それは恐らく、吉羅の姉が亡くなった時の哀しみだろう。
 それを思うと、また泣けてきてしまった。
「ったく、君は泣き虫だね」
 吉羅は困り果てたように呟きながら、香穂子のために車のドアを開けてくれた。
「どうぞ、お嬢さん」
「有り難うございます」
 香穂子は頷くと、車に乗り込む。
 吉羅は何も言わずに、車を出してくれた。
 吉羅の優しさがこころに染み透ってくる。
 今までもいつも見守ってくれていた。
 大きな優しさに、香穂子は胸がいっぱいになる。
「理事長、本当に有り難うございます」
 香穂子が感謝の意を表しても、吉羅は表情を変えやしない。
 それでも優しさは伝わってきた。
「…私は君にコンミスを命じた理事長として、ごく当たり前のことをしたまでだよ。君のコンディション作りには協力する。それだけだ」
「有り難うございます。気遣って下さって」
「当然のことだがね」
 吉羅はさらりと言うと、ステアリングを巧みに操り、高速を駆け抜けていく。
「…嬉しかったです…」
 先ほどまであった切ない気持ちは、もう何処かに消え去ってしまった。
 ただ新しく芽生えた感情もある。
 吉羅を見つめるだけで、胸が切なく痛くなる。香穂子にはこの気持ちが何なのか、知る術もなかった。
 甘く苦しい感情の意味を。



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