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苦しいことがあれば、吉羅に助けて貰っていたような気がする。 さり気なく、いつもケアをして貰っていた。 その優しさに、今はこころが支配されている。 他のことが目に入らないぐらいに。 香穂子がひとりで学院まで歩いていると、吉羅のフェラーリが通り過ぎて行くのを見掛けた。 つい視線は、その車を追ってしまっている。 今までは土浦を視線で追いかけていたが、今は吉羅の縁のものを追いかけてしまう。 それは、心境の変化だ。 理由はまだ、自分では解らなかった。 「香穂!」 肩をポンと叩かれて、香穂子は思わず振り返った。 「おはよう、菜美」 香穂子が明るく挨拶をすると、天羽は複雑な表情を向けた。 「やっぱり、土浦くんとは、最近、一緒に通学していなかったんだね」 複雑そうな表情で見つめてくる天羽に、香穂子は視線を合わせないように頷いた。 「…そうなんだ。やっぱり…」 天羽は肩を落とすように言うと、香穂子の肩をそっと叩いてくれた。 「あんたたちが既に別れたって噂があるのを聞いてさ。気が気じゃなかったんだ…」 「そう…なんだ…」 そんな噂が広がっているなんて、香穂子には思いもよらなかった。 「土浦くんがあんたと別れて、都築さんと付き合っているって噂もあって、心配していたんだよ…」 天羽は今にも泣きそうな顔をしている。 噂を完全に否定することが出来なくて、香穂子は切ない気分になった。 「…香穂?」 「…土浦くんとは、最近、ギクシャクしているのは事実だけれど、別れてはいないよ。…土浦くんにも優先したいことがあるだろうし…」 香穂子は歯切れ悪く言うと、誤魔化すように笑う。 「香穂だって、コンミスのことだ大変なのに、どうして自分のことばかりを優先するんだろうっ!? だって、お互いに大変な時には、支えあうのが普通の恋人同士じゃないっ! そんなことも出来ないなんて、カレシとして失格じゃんっ!」 天羽は、頭から湯気が出るのではないかとこちらが思う程に、怒ってくれている。 正直言って、とても嬉しかった。 こんなにも怒ってくれるなんて、思ってもみなかった。 やはり友達は良いものだと思う。 「…都築さんと土浦くんが一緒にいるのは、何度も見たことがあるんだ…。よくふたりで、音楽のことを話していることも。ふたりとも、同じ高みを目指しているから、しょうがないんだけれどね…。そのあたりは、理解してあげないといけないって思っているのに、やっぱり上手くいかなくて…」 話しているうちに、声がかすれて来る。 また切ない想いが込み上げて来て、香穂子は切なくてしょうがなかった。 「…香穂…」 泣きそうな顔をしていると、天羽が軽く頭を抱き寄せてくれる。 それが温かくて、とても嬉しかった。 「ったく! あの男は女の子の敵だよ。女の子の気持ちを少しも解ってはいないよ」 天羽は完全に土浦なんて見限ったとばかりに、強い論旨で呟いていた。 「…指揮のことに夢中で周りが少し見えていないだけだよ…」 「それにしても酷いよ! 普通だったら三下り半を突き付けられてもおかしくないよっ! だってさ、あんたもものすごく大変なんだよっ!? なのに気遣うことも出来ないなんて、カレシとしてサイテーだよっ!」 天羽はすっかり怒りモードになり、土浦を完全に敵視していた。 「だけど、ただでさえ大変な時だけれど、大丈夫なの?」 「うん。大丈夫だよ。ヴァイオリンに夢中になっていれば、それだけ考えていれば良いし」 香穂子はなるべく明るく振る舞おうと、笑顔で話をする。 それを天羽は痛々しそうに見ていた。 「…香穂…」 「大丈夫だよ。本当に…」 昨日は、吉羅がいたからこそ、痛みが癒された。 ひとりで堪えていたわけではないから。そういう意味では同罪なのかもしれない。 「香穂、土浦くんがさ、余り酷かったら、一度話し合って、それでも改善されないようだったら、少し距離を置いた方が良いよ」 「…そうだね…」 香穂子はポツリと呟くと、視線を俯き加減にした。 昼休みもひとりになりたくて、香穂子は寒いなか、屋上へと上がる。 土浦と顔を合わせたくはなかった。 顔を合わせてしまえば、またマイナスの感情が出て来てしまうから。 香穂子はひとりでお弁当を食べながら、冷たい風に吹かれる。 ふと気の毒そうに見つめて来る視線に気付き、胸が苦くなった。 「…やっぱり土浦くんにフラれたって本当なんだね…。可愛いそう」 そんなことばが耳に入り、香穂子は堪えられなくて、屋上から出るしかなかった。 痛くて堪らない。 この痛みを忘れようと懸命になっていると、不意に吉羅の顔が浮かんだ。 吉羅がそばにいてくれているだけで、マイナスの感情から脱却することが出来た。 吉羅暁彦という存在が、香穂子にとっては精神安定剤になっている。 逢いたい。 吉羅に逢えば、この気持ちが腫れ上がるだろうに。 吉羅に依存を始めている自分に、苦笑いするしかなかった。 放課後、いつものように理事長室に行き、定期考査を受ける。 順調に課題をこなしていることは解っているから、後ろめたいことは何もないはずだ。 だが、都築の顔をまともに見ることなんて出来ない。 あの妖艶な表情を見ていると、胸が痛くなってしまうから。 だからと言って吉羅ばかりを見てはいられない。 吉羅ばかりを見つめても、また違った意味で息苦しくなってしまうから。 香穂子は視線をふたりに合わせないように努力しながら、前を見ているように見せかけておいて、部屋のありとあらゆる場所に焦点を合わせた。 「順調にいっているようだね。良いことだ」 「有り難うございます」 「日野さん、この調子で頑張って頂戴。あなたなら出来るはずだから」 都築の艶のある女らしい声に胸を痛めながら、香穂子は小さく頷く。 こんなにも大人で艶やかな女性ならば、土浦が惹かれても当然だろう。 そう思うと、こころが麻痺したようになる。 「…日野君、顔色が悪いが、具合でも悪いのかね?」 吉羅が不快そうに香穂子を見つめ、眉根を寄せる。 その表情をまともに見ることが出来なくて、また視線を下げてしまった。 「大丈夫です。練習がありますから、失礼してよろしいでしょうか?」 「ああ。行きたまえ」 「有り難うございます。失礼します」 理事長室から出ると、香穂子は安堵したかのように大きな溜め息を吐いた。 あの空間にいると、正直言って溺れそうになる。 甘く切ない想いを抱かせる吉羅と、苦々しい痛みを抱かせる都築と。 ふたりに囲まれると、本当に息がおかしくなってしまいそうだった。 どうしたら良いのかが解らない程に、感情が混乱を極めている。 どうすれば楽になるのか。 香穂子はそんな自分に苦笑いを浮かべながら、練習へと向かった。 このまま土浦とはすれ違いのままになるのだろうか。 折角、小さな恋の炎を温めてきたのに、それが消えてしまうのだろうか。 香穂子は中庭でヴァイオリンを練習し終えた後で、だらりとベンチに腰を下ろした。 ヴァイオリンを練習している時だけは、煩わしい感情から解放される。 だが、ヴァイオリンの練習を終えた瞬間、またどす黒い感情に飲み込まれてしまいそうになるのだ。 「…ヴァイオリンロマンスなんて、やっぱり嘘だよ…。そんなもの…私には関係ないかもしれないよ…」 小さく力なく呟きながら、香穂子は空を見上げる。 その姿を吉羅がじっと見守っていることを知らずに。 |