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天羽たちと約束をした春節の前日は、何故だか気分が重かった。 折角、土浦と久し振りに過ごすことが出来る休日だというのに、どうしてこんなにも気分が重苦しいのだろうか。 いつの間にか、土浦の笑顔も、声も、遠いものになっていた。 臨海公園でヴァイオリンを練習するが、いつもよりもオーディエンスは少ない。 春節真っ直中だから当然だ。 この時期は、誰もがお祭騒ぎなのだ。 ヴァイオリンを弾き終わると、いつものように吉羅が姿を現した。 吉羅暁彦はいつも通りにクールだが、何処か暖かみも感じる。それは香穂子が吉羅の優しさに何度も触れているからだろう。 「今日も練習かね、日野君。春節なのに精が出るね」 「明日、コンクール仲間みんなとわいわいしながら春節に行くんです。だから、今日は沢山練習をしなければならないと、思っています」 「良い心掛けだね」 吉羅がほんの少しだけ微笑んでくれたのが嬉しくて、思わず微笑み返してしまう。 「日野君、横浜を出て少しドライブをしないか?」 「喜んで!」 香穂子はまるで子犬のように頷きながら、ヴァイオリンをケースに片付ける。 今、悶々と考えないでいられるのは、ヴァイオリンを弾いている時と、吉羅とこうして話している時だけだ。 その時だけは、こうして素直に笑っていられるのだ。 「そこに車を停めてある。行こうか」 「はい」 こうして吉羅と出掛ける時間が、今や香穂子にとってはとても大切で温かな時間になりつつある。 宝物のような時間だ。 「ベイブリッジを走ろうか。今日は騒がしい横浜ではなく、静かな所が良いね」 吉羅は車に乗り込みながら、何処に行くか、色々と考えを巡らせてくれている。 そういえば、土浦とはデートらしいデートをしたのは殆どなかったことを思い出した。 いつも練習の後に、楽器店に寄ったりしているのが、デートのようなものだった。 あの頃はそれだけでも嬉しかった。 少しでも良いから、一緒にいられる時間を持てるのが嬉しかった。 今では、共通の時間すら殆どないと言っても良かった。 今は、吉羅と過ごす時間のほうが多くなり、香穂子の安らぎの時間はそれに代わってしまった。 「日野君、何処か行きたい場所はあるかね?」 「ドライブが好きですから、何処でも良いんです。ベイブリッジは渡りたいかも」 「じゃあ、そうしようか」 「はい」 吉羅はベイブリッジに向けて、車を走らせていく。 混合った中華街も楽しいが、こうして吉羅とふたりで横浜から逃げるのも悪くはない。 香穂子は、見慣れた風景と吉羅の運転する姿を交互に見つめながら、幸せな気分で微笑んでいた。 こうして吉羅といると、甘くて苦しい気持ちで胸がいっぱいになる。少し痛みはあるが、それは幸せな痛みだ。 車はベイブリッジを渡り、都内に向かって走っていく。 「ベイブリッジから見る風景は最高に素敵ですね」 「そうだね。ここから見る風景は確かに素晴らしい。毎日見ていると、余り気にも留めないが、こうして君に言われると、改めてそう思うね」 吉羅もいつもの冷たい表情を脱ぎ捨てて、柔らかく微笑んでくれている。それがとても幸せだ。 「今日は寿司屋にでも行こうか」 「賛成です。いつも有り難うございます」 香穂子が明るく微笑むと、吉羅は機嫌良さそうに頷いた。 「理事長は、春節には行かないのですか?」 「私は人込みは苦手でね。学院生の頃や子供の頃は、よく行ったのだがね。今はいつもの中華街に行くのが良いと思うがね」 「そうですか」 香穂子は、中華街で騒いでいた頃の吉羅を思い浮かべて、思わずくすりと笑った。 「何を想像していたのかね?」 「何でもないですよ」 香穂子はしらりと言うと、また車窓に映る風景を見つめ始めた。 「明日は楽しんで来たまえ」 「有り難うございます。理事長も明日はゆっくりと休んで下さいね」 「残念ながら、明日も仕事だよ。翌週の準備と、幾つか書類に目を通さなければならないからね」 「余り無理をされないで下さいね。躰を壊さないで下さい」 端から見ていても、吉羅のワーカーホリックぶりはかなりのもので、本当に学院の存亡をかけて頑張ってくれている。 それが嬉しくてしょうがない。同時に心配ではあるが。 「本当に躰は大切にして下さいね。理事長」 「学院の移転問題を撤回した以上、こうして馬車馬のように働いているよ」 吉羅は微苦笑しながら、瞳を柔らかくする。それがとても魅力的で、香穂子の胸を騒がせた。 「…その分、コンミス、頑張りますから! 経営だとか、そんなことは私には解らないですけれど、ヴァイオリンで出来ることがあれば遠慮なく言って下さいっ!」 香穂子は思わず力を入れて言うと、吉羅に笑いかけた。 吉羅はフッと穏やかな笑みを浮かべると、頷く。 「そのための餌づけかな?」 「餌づけをいっぱいされたら、それこそ得意になって暴走しちゃいますよ」 香穂子が笑うと、吉羅は苦笑いを浮かべた。 こうして吉羅と他愛ないことを話すのが、とても楽しい。 温かくて何処か切なく甘い感情が芽生えてくる。 そばにいるだけでドキドキしてしまい、喉がからからになる程に緊張してしまう。 この感情の名前が何なのかは、まだ解らない。 だが、純粋な気持ちであることは間違いないと思う。 吉羅といるだけで、嫌なことは総て忘れ去ることが出来た。 「もうすぐだ。お腹は空いたかな?」 「おなか空きました!」 「だったらいっぱい食べると良い。明後日から、また頑張って貰わないといけないからね」 「はい。良い気分転換をさせて頂いていますから、明後日から、また頑張りますね」 「頼んだよ。君の成功は学院としてはとても意味があるものだからね。君と私、学院は一蓮托生かな」 「とにかく。今は頑張ります。学院がいつまでも学院でいられますように頑張ります」 「そうだね」 吉羅は静かに呟きながら、車を減速させていく。 吉羅は何も訊かないでいてくれる。 この間は、あんなにも優しく慰めてくれたのに、何も訊かないでくれる。 恐らく、香穂子が何かを言わなければ、吉羅からは言わないつもりなのだろう。 大人の男の優しさに、香穂子は胸が苦しくなるのを感じた。 こんなに大きな優しさに触れたのは初めてだ。 出会った頃は、冷たいひとだと思っていた。 ひとのことを考えないひとだと。 だが、実際には違っていた。 吉羅は、自分が認めれば、優しさをさり気なくくれるひとなのだ。 「さて、着いたよ。沢山食べて頑張りなさい。見返りは、オーケストラの成功だよ。日野君」 「そうなれるように頑張ります!」 香穂子は元気良く笑顔で答えると、吉羅に着いて寿司屋へと入っていった。 お寿司は相変わらずかなり美味しくて、香穂子は大満足だった。 「有り難うございます。大満足でした」 「それは良かった。またベイブリッジを渡って帰ろう。夜景が綺麗だからね」 「はいっ!」 フェラーリの助手席に乗り込み、香穂子は吉羅を見つめる。 「いつも、色々と気遣って頂いて、有り難うございます。この間のことも…、理事長がいてくれたから。くよくよせずにすみました。有り難うございます。…私、何も返せなくて…」 「アンサンブルの演奏と、無事にオーケストラのコンミスが成功することが、私への何よりもの返礼になるから、しっかりとはげみたまえ」 「有り難うございます」 香穂子が頷くと、車は静かに動き出す。 吉羅といると楽しくて同時に安らぎが得られる。時折、ドキドキし過ぎておかしくなることもあるが、その苦しさを凌駕する甘さだ。 土浦といると、嫌われたらどうしようだとか、そんな不安ばかりに捕らわれる。 香穂子はこころが激しく揺れ動くのを感じながら、唇を噛み締めた。 |