*恋のゆくえ*

10


 春節の日、香穂子は溜め息を吐きたい気分になっていた。。
 土浦と逢えるのだからドキドキしても当然だというのに、何処かこころが重い。
 土浦に嫌われたくないから、今までこうして土浦が望むことばかりを聞いていた。
 だが、そうすればするほどに、香穂子自身が窮地に追い込まれて行くような気がした。
 今日は、“寒いから”ということにかこつけて、ジーンズにセーター、ダッフルコートという、カジュアルなスタイルで出掛けた。
 デートではないから、そこまで頑張らなくて良いと、自分に言い聞かせていた。

 待ち合わせ場所に行く間、心臓が妙なリズムを刻む。
 こんなに息苦しいことは初めてなくらいだ。
 苦しさの余りに、もうこころが限界だと、叫んでいるような気すらなった。
 集合場所に集まると、いつもの楽しいメンバーたちが集まっていて、少しだけホッとする。
 何時からだろうか。
 土浦とふたりきりになるのが怖くなるなんて。
 何時からだろうか。
 土浦の顔色ばかりを伺うようになってしまったのは。
 香穂子は心臓の奥が、またチクリと痛むのを感じていた。
「さーてと! 今日はお正月! 日頃のストレスを発散させて、パーッと楽しく過ごしましょう!」
 天羽の景気づけの賑やかな言葉に、香穂子は思わず微笑んでしまう。
「うん! ここは元気よく賑やかに過ごそうね!」
 天羽のそばで元気良く言うと、土浦がこちらを見てくる。
 きっと時間が取られてしまったとでも思っているのだろう。
 そんな穿った目でばかり見てしまう。
 仲間たちとぞろぞろと中華街を移動し、大通りで繰り広げられる賑やかなパフォーマンスに見入る。
「あっ! パンダだよっ! スクープ! 何でこんなところにパンダがいるのっ!?」
 珍しいものを見れば突撃せずにはいられない記者気質の天羽は、パンダの着ぐるみを追いかけて何処かへ行ってしまった。
 香穂子たちはしょうがないとばかりに、苦笑いするしかなかった。
「天羽さん、これじゃあ迷子になってしまうよ…。みんなで手分けをして探すしかないね」
 柚木の呆れ果てるような溜め息に、香穂子も同意するしかない。
「そうですね」
「じゃあ、手分けしようか。2〜3人一組で探そうか」
 柚木の提案に、誰もが軽く頷いた。
「じゃあ、月森君と加地君で、火原は志水君と、残りは僕たち三人で探そう」
 柚木の割り振りに納得しながらも、香穂子はどこか気分が重くなる。
 土浦ときちんと話す勇気が今はない。
 普通の会話ですらも危うい状況なのだ。
 ギクシャクしてきたふたりの仲が、余計に酷いものになるのではないかという不安ばかりが先行してしまう。
 暫く、無意識にふたりは目を合わせていた。
 お互いに言葉を発することが出来なくて、上手く素直になることが出来ない。
 それが辛い。
「さあ、君達、僕たちも行こうか。天羽さんを探しつつ、中華街を楽しもう」
「そうですね」
 香穂子は頷くと、柚木の後に着いて人込みに入っていった。
「しかしお祭だとは言え、凄いひとだね。今日、集合がかからなかったら、遠慮するところだよ」
 柚木の言葉に同意してしまう程に、今日の人出は凄い。
 吉羅が来ないのも納得するところだ。
「きゃっ」
 流石にかなりの人で、華奢な香穂子は直ぐに流されそうになる。
 それを土浦が受け止めてくれた。
「香穂、大丈夫か!?」
「大丈夫だよ。有り難う」
「お前は流され易いからな。気をつけろよ」
「うん」
 土浦は、香穂子の手を包み込むように握ると、これ以上流されないようにしてくれる。
 大きくて温かい手。
 ピアニストの手だ。
 だが、香穂子は握り返すことが出来なかった。
 土浦の手のひらは安心する筈なのに、何故だか握り返すことが出来ない。
 もう自分が手を繋ぐ資格が残っていないような気がしたから。
「あれ? 柚木先輩は?」
 いつの間にか、柚木が姿を消してしまっている。
 何処かに流されて行ってしまったのだろうか。
 それとも柚木のことだから、わざとかもしれないが。
「しょうがねえな。離れちまったから、俺たちはのんびりしながらふたりを探すか」
「そうだね」
 にっこりと笑うと、土浦も久し振りに笑顔をくれた。
 お互いに話したいことは沢山ある筈なのに、なかなか切り出すことが出来ない。
 香穂子としても、都築との噂のことを訊いてみたいし、そばにいて欲しいと、もっとふたりで過ごしたいと言ってみたい。
 だが、言うことが出来ない。
 素直になって一言言えば良いだけなのに、その一言が言えない。
 重たい沈黙のまま、ただ手を繋いで歩いていく。
 不意に関帝廟が目に入り、香穂子は指差した。
「ねえ梁太郎くん、お参りして行こうよ。関帝廟に!」
「そうだな。今日は中国と中華街のお正月だから、郷に入れば郷に従えということで、お参りに行くか」
「うん。お参りに行こうよ!」
 香穂子の明るい声にホッとしたのか、土浦も笑って頷いてくれる。
 手を繋いだままで、ふたりは関帝廟へとお参りに向かった。
「あ! おみくじがあるよ! 引こうよ!」
「そうだな」
 香穂子は土浦から手をするりと離すと、おみくじを引く。
「えっと、私は…、中吉! どれどれ…」
 おみくじに書かれた文面を読み、ハッとさせられる。
 “恋に苦しんだ後に、思わぬところから幸せがやってくる”
 一瞬、吉羅暁彦の顔が浮かぶ。
 慌てて消し去ろうとしても消えなくて、ドキドキするばかりだ。
「香穂、お前は何だったんだ?」
「私? 私は中吉だよ。梁太郎くんは?」
「俺は大吉。御守り代わりに持っておこうかと思って」
「そうだね。今年は音楽科に変わるし、きっと良い御守りになるよ」
 そうなると良い。
 土浦が望むように、勉強が捗れば。
 誰よりも夢を叶えて幸せになって欲しい人だから。
「お前はくくり付けるのか?」
「うん。願いが叶うようにくくるよ」
「そうか」
 香穂子はおみくじをくくりつけて、願いを込める。
 早くみんなが幸せになれるようにと、祈らずにはいられなかった。
「じゃあ、行くか」
「そうだね」
 香穂子は頷くと、少し先に関帝廟から出る。
 不意に携帯電話が鳴り響き、慌てて出る。
「はい、日野。あ、柚木先輩!菜美が見つかったんですか?はい、じゃあ集合場所に行きますね。“横浜 大世界”ですね。了解しました」
 香穂子はくるりと振り返ると、土浦に電話の内容を伝える。
「じゃあ、行くか」
「そうだね」
 そのまま手を繋ぐことなく、ふたりは歩き始めた。
 手を繋がない行為が、ふたりのなかの溝が深いものであることを、感じさせた。
 いつの間にか深い溝が出来てしまったのだと、香穂子は切なく感じる。
 ふたりのこころの距離が今は痛かった。
 結局、嫌われたくない想いが、更に溝を深めてしまったのだと感じる。
 だが、素直に怒ることが、今は出来なかった。
 怒りたいのに。
 もっと構って欲しいと。
 なのに怒ることが出来なくて、香穂子は俯く。
 ふたりは話さないままで、待ち合わせ場所へと向かった。

 仲間たちと合流をした後は、楽しく屈託なく過ごすことが出来た。
 土浦とも騒ぐことができたが、それは恋人同士ではなく、仲間として楽しんだ。
 中華街を後にして、香穂子は土浦に送って貰う。
「明日さ、都築さんの紹介で、指揮科の講師に逢うことになってるんだ。すまないがアンサンブル明日は参加出来ないから」
「うん、解ったよ」
 土浦の瞳を見ていると、輝いているのが解る。
 それだけ音楽を愛し、指揮を愛しているのだろう。
 帰り道は殆ど音楽の話ばかりになる。
 本当は、もっと恋人らしい会話をしたいのに、それも出来ない。
 香穂子は曖昧に笑いながら、話を聞くことしか出来なかった。



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