*恋のゆくえ*

11


 また、一週間が始まる。
 香穂子がひとりでのんびりと登校していると、天羽が後ろから肩を叩いてくれた。
「香穂! おはよう!」
「おはよう、菜美。昨日はお疲れ様」
「そちらこそ」
 菜美は香穂子の表情を見るなり、少し影のある笑みを浮かべる。
「…その様子だと、昨日は土浦くんとは余りはなすことが出来なかったみたいだね」
「うん…。何だか言えなくて。嫌われたくないなんて思ってしまうから、素直に言えなかったんだよ」
 香穂子が八方破れな笑みを浮かべると、天羽はやっぱりと溜め息を吐いた。
「だけど、一度、ちゃんと土浦くんとは話し合ったほうが良いよ。このままだと、香穂が参ってしまうよ?」
 天羽は本当に心配そうに見つめてくれる。友人の温かな気持ちが嬉しくてしょうがなかった。
「有り難う。だけど私、意外に元気なんだよ? 食欲が落ちているわけじゃないし、ちゃんと食べているし。意外にタフなんだよ、私は」
 香穂子が豪快な笑みを浮かべると、天羽はほんの少しだけ安心したように微笑む。
「それは良かったよ。だけどさ、カノジョをここまで放っておくのは犯罪だよ? そんな酷いカレシ、私は知らないよ」
「音楽科転科で大変なんじゃないかな?」
 香穂子はさり気なくフォローをするが、天羽は許さないとばかりに、口をへの字に曲げた。
「だってさ、こんなにも酷いことはないはずだよ。だってさ、音楽科転科だけでもカノジョをないがしろにして勉強しているヤツが、転科した後に埋め合わせをしてくれるなんて考えられない。この扱いは続くよ。音楽科転科した後はもっとひどくなるよ」
 天羽はいきり立つように言い、土浦には相当腹を立てているようだった。
 香穂子は心臓が痛みを感じてしまうほどにドキリとする。
 確かに天羽の言うことには一理ある。
 土浦が音楽科に行ってしまったら、更に指揮や音楽の勉強にのめり込むのが目に見えている。
 このままないがしろにされて捨てられるのだろうか。
 そう思うだけで、泣きそうになった。
「…香穂…」
 天羽は、香穂子を気遣うように見つめると、子供をあやすように背中を優しく撫でてくれた。
「…有り難う…、菜美…」
 香穂子はそれ以上言えなくて、洟を大きく啜る。
 優しさに慰められながら、何とか立っていられるような状態だった。

 昼休み、香穂子が廊下を歩いていると、金澤に声を掛けられる。
「日野。ちょっと良いか?」
「はい」
 香穂子が足を止めると、金澤はいつものように困った表情を浮かべる。
「お前さん、音楽科へと転科の返事、そろそろタイムリミットだ」
「…はい。解っています。だけどなかなか結論が出ないんです…」
 ここのところはずっとアンサンブルのことばかりを考えていたせいで、すっかり忘れてしまっていた。
「ゆっくりと考えろとは、流石に言えない時間になって来たからな」
「はい。解っています」
 香穂子はうなだれるように軽く俯いてしまう。
「とにかく、早目に結論を出してくれや。土浦はもう音楽科転科を見越した勉強をしているからな。だから、お前も音楽関係の道に進むと思うならば、結論出して、今から勉強を始めないと苦しいぞ」
「…解っています」
 音楽は好きだし、ヴァイオリンを弾くのは本当に大好きだ。
 今はヴァイオリンを弾くだけでも幸せで、それ以外のことは考えられない。
 香穂子が黙り込んでいると、タイミング良くチャイムが鳴り響いた。
「あっ! そろそろ授業に行かなければなりません。なるべく早く返事をします」
「ああ、頼んだぜ」
「はい。有り難うございます」
 香穂子は金澤に深々と頭を下げると、踵を返した。
 教室まで一気に掛け上がり、息を切らした。
 今は転科のことは考えたくなかった。

 月曜日の定期考査のために理事長室へと向かう。
 順調に進んでいるから、何も愁うことはないはずなのに、何処か切ない。
 ノックをすると、吉羅の素っ気無い声が聞こえてきた。
「日野です。理事長」
「入りたまえ」
 香穂子がそっと理事長室に入ると、吉羅と都築が待構えていた。
 都築に視線を合わせられない。
 土浦との苦い想いが込み上げてくるから。
 香穂子は、ふたりの前でヴァイオリンを構えると、演奏を始める。
 ヴァイオリンを弾いている時は、こころが軽くなる。
 今は、ヴァイオリンを弾いている時と吉羅と一緒にいる時だけが幸せだった。
 ヴァイオリンを奏で終わり、吉羅を見ると、頷いてくれる。
「良く頑張っているわね。考査の度に上手くなっているわね」
「…はい、有り難うございます」
「オーケストラのメンバーもほぼ集まっているようだね。良いことだ」
「はい。この調子で頑張ります」
 香穂子が頭を下げると、ふたりとも温かな雰囲気で包み込んでくれる。
「…ではこの調子で頑張ってくれたまえ」
「はい。有り難うございます」
 香穂子は結局、1度も都築の顔を見ることがないままで、理事長室を出た。
 溜め息を吐いた後で、香穂子はとぼとぼと歩いて行く。
 中庭の校舎の陰から、聞き慣れたふたりの声が聞こえてきた。
 ちらりとふたりの姿を見ると、そこには天羽と土浦が対峙している姿がある。
「また、指揮の勉強に行くんだ」
「それがどうしたんだよ」
 ふたりが睨み合っている様子に、心臓が痛くなってくる。
「香穂のことないがしろにして、どうゆうつもりだよっ!? あんたの指揮の勉強も大変かもしれないけれど、香穂だって、コンミス試験や、オーケストラの準備で大変なんだよっ!? なのにどうして、ずっと放っておくのさ!? カレシとして失格だよっ!」
 天羽の論旨はいきり立ち、容赦のない攻撃を土浦に向けている。
 ふたりの様子を見ているだけで、胸がキリキリと痛んだ。
 息苦しくてしょうがない。
 こんなにも苦しいなんて、酸欠で倒れてしまいそうだ。
「俺だって優先したいことだってあるんだ! 指揮の道に進もうと決めた以上は、俺は出来る限りのことをしたいんだよ!」
「そんななかでも、カノジョを気遣うことぐらい出来るでしょう!?」
 天羽は今にも天羽に飛び掛かるのではないかという程の勢いで言い、仁王立ちしている。
 ふたりの様子をおろおろしながら見つめ、香穂子はもう限界になるぐらいに痛みを感じた。
「…天羽、お前には解らないんだよ。音楽の道に進む厳しさを! そんな余裕がないぐらいに、厳しいんだ…!」
 土浦は天羽を攻撃するように言い、鋭いまなざしで睨み付けている。
決定的だ。
 土浦は香穂子のことを考えてはくれない。
 これからも同じだろう。
 香穂子のこころがガラスのように粉々になる。
「余裕がないのは、香穂も同じでしょっ!? あの子の細い肩には、学院のこれからの未来が掛かっているのと同じなんだよっ! 重いものを抱えているのは同じことだよっ! なのにあの子はあんたのことに気遣っているんだよっ! あんたはカレシとしての資格は全くないよっ!」
 天羽は厳しく言うと、土浦を睨み付ける。
 ふたりを見ていると、こころが壊れてしまいそうだ。
「…もう、止めてよっ!!」
 香穂子はふたりの間に入ると、天羽を守るように立つ。
「有り難う、菜美…。…もう良いよ…」
「…香穂…」
 天羽は痛々しそうに見つめてくる。
 香穂子は今までの感情を洗い流すように、涙を流す。
「…梁太郎くん、もう…私たちはダメだよ…。こんなにすれ違っていたら…」
「香穂…!?」
「もう別れようよ。別れたほうが良いよ」
 声が揺れて嗚咽に変わる。
 土浦の顔をまともに見るとことが出来なくて、香穂子は俯く。
「おいっ! それは本気で言っているのかよっ!?」
 土浦に強く肩を掴まれて揺らされる。
 耐えられない。
 これ以上堪えていたら壊れてしまう。
 香穂子は土浦の手を振り払うと、そのまま走り出した。
「香穂っ…!?」
 涙で視界がかすむ。
 その先には、吉羅が驚いたようにこちらを見ているのが見えた。
 広くて大きな胸。
 香穂子は迷うことなく飛び込んだ。



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