*恋のゆくえ*

12


 吉羅の硬くて逞しい胸に飛び込んだ瞬間、安堵を感じた。
 この胸に抱かれていれば、総ての災いや苦いものから守られるような気すらなる。
「日野君? どうしたのかね…?」
 低く落ち着いた声が胸に響いて聞こえる。それを聞くだけで、涙がすんなりと止まる。
「香穂…!」
 ようやく追いついてきたのか、とても近くに土浦の声が聞こえた。
「理事長、香穂を…日野を離して下さい」
 土浦に引き渡されるのかと、香穂子は一瞬躰を震わせる。
「土浦君、日野君は混乱しているようだ。少し休ませたほうが良い…。今はそっとしてあげたほうが良いだろう」
 吉羅の声は、いつも通りに淡々としているが、力強さもある。
 香穂子は、どうか吉羅が離さないでくれるようにと、こころの奥で祈った。
「…ですが…、これは俺と香穂の問題です。理事長には関係ありません…!」
 土浦の声が悔しさで僅かに揺れているのが解る。それが香穂子の胸を刺す。
「…関係なくはない。私は、彼女をコンミスとして指名した以上は、そのコンディションをベストにする責任がある。彼女が精神的にも肉体的にも充実するように、してやらなければならない。そういう意味で、君に日野君を渡すわけにはいかない。話し合いは、彼女が落ち着くまで待ってやって欲しい。今は、彼女にはベストを尽くして欲しい。それだけなんだよ」
 吉羅の言葉に香穂子は泣きそうになる。
 香穂子をコンミスに選んでしまった手前、こういう大きくて温かな言葉をかけてくれているのだろう。
 だが、その気遣いこそが、今の香穂子にとっては最も必要なことなのだ。
 それを土浦は解ってはくれない。
「土浦君、理事長の言う通りだよ。少し待ってやって。香穂もまだこころがグチャグチャになっていて、まともな話し合いが出来ないだろうから」
「…解った…」
 土浦はしょうがないとばかりに溜め息を吐くと、引き下がってくれる。
「解りました。今は俺が引きます。香穂が落ち着くまで待つことにします」
「ああ。そうしてくれたまえ」
 吉羅は静かに頷いた後、香穂子からゆっくりと離れた。
 当然だ。理事長と生徒がこんなことをして許される筈はないのだから。
 だが、躰から吉羅の温もりと、艶やかな男らしい香りが離れてしまうと、喪失感を噛み締める。
 もう少しだけ、そばにいたかった。
「日野君、君は少し落ち着いたほうが良い。理事長室で良ければ使うと良い」
「はい。有り難うございます」
 香穂子が頷くと、吉羅は着いて来いとばかりに、先を歩き始める。
 香穂子は吉羅の後ろを、ゆっくりと追っていった。

 理事長室のソファに香穂子を座らせた後、吉羅は落ち着かせるために温かな紅茶を出してやる。
「温かいものでも飲んで落ち着きなさい」
「…はい。有り難うございます…」
 切なくて辛い筈なのに、香穂子は笑顔を忘れずに、何処か儚い笑みを浮かべる。
 それがこちらの胸を打った。
「私は仕事をしているから、君は落ち着くまでここにいると良い」
「有り難うございます…」
 吉羅が理事長席に腰を下ろして仕事を始めると、香穂子は溜め息を吐きながら紅茶を啜る。
 香穂子にはいつも笑っていて欲しい。
 切ない表情なんて似合わない。
 最近、恋のことで悩んでいたのか、ずっと泣きそうな顔をしていた。
 切ない気分を消してあげたくて、吉羅は逢う度に様々な場所へと気分転換に連れていった。
 暗い顔をした香穂子を見たくはなかったからだ。
 だが、切ない表情の香穂子は、こちらが息を呑んでしまいそうになるぐらいに綺麗で、いつまでも見ていたいとすら思った。
 だが笑ってもいて欲しい。
 そんな矛盾した想いを抱きながら、吉羅は香穂子と接してきたのだ。
 吉羅は香穂子をちらりと見つめる。
 初めて夢中になった女。
 まさか自分が、コントロール出来ない程に女に、しかも自分よりも随分と年下の少女に恋をするなんて、思ってもみなかった。
 だが実際には、誰かから奪えない程に恋してしまった。
 香穂子が幸せでいれば、それで良いと思い続けていた。
 だが、気分転換にと連れ出す度に、恋心は沸騰して、自分ではどうしようも出来ないところまで来てしまっている。
 こんなにも切ない感情を、吉羅は他に知らない。
 吉羅は仕事の手を休めて、不意に指を顎の下で組む。
 香穂子が誰よりも愛している土浦がいるから、土浦の前では最高の笑顔を見せていたから、身を引いていたのだ。
 だが、今は違う。
 土浦は、確実に香穂子を泣かせている。
 香穂子の切ない表情の原因は、殆ど土浦だと言っても、今は過言ではない。
 ならば。
 香穂子の笑顔は自分が貰う。
 香穂子を決して切ない表情にはさせやしない。
 もう遠慮なんてしなくて良い。
 吉羅は、香穂子に対して、初めて攻めの恋をした。
 不意に、香穂子がこちらを見つめているのが見えた。
 随分と落ち着いているように思える。
「理事長、随分と楽になりました。有り難うございます」
 香穂子は先ほどのしょっぱい表情からは信じられない程に、明るく澄んだ笑みを浮かべた。
「良いもんですね?」
「何が…」
「理事長のお仕事をしている姿を見るのは」
 香穂子はにっこりと微笑むと、吉羅を楽しそうに見つめる。
 その笑顔を見ていると、吉羅は欲しいと思った。
 瑞々しい笑顔に、吉羅は思う。
 自分ならば、この笑顔を曇らせることはないと。
「日野君、落ち着いたらどうするかね? 今日はここで練習をしても構わないよ」
「そうですか。そうさせて貰います」
 香穂子はにっこりと微笑むと、ヴァイオリンをケースから取り出した。
「理事長のお仕事の邪魔にならないですか?」
「…大丈夫だよ。ヴァイオリンの音色は邪魔にはならないから」
「有り難うございます」
 吉羅が静かに仕事を再開すると、香穂子は気遣うようにヴァイオリンを奏で始めた。
 香穂子の奏でる音色は、やはり温かい。
 甘くて何処か華やいだ気分にさせてくれる。
 しかし、ここまで短期間で上手くなるとは、奇蹟だと吉羅は思わずにはいられなかった。
 香穂子のヴァイオリンと出会ったのは、学内コンクールの最終セレクションだった。
 あの時は、こんな出会いがあるなんて予想することがなく、ただ冷たい気分でセレクションの演奏を聴いていた。学内PRに使えそうな主要生徒の音を聴けば、それで良かった。
 なんて下手くそだと思って、それゆえに最後まで聴いてしまったのが、香穂子の音色との出会いだった。
 下手くそなのに不思議と温かな音色を持った演奏に、吉羅はこころを奪われてしまった。
 あれから猛スピードで上手くなっている。
 これは奇蹟だ。
 吉羅は、香穂子の音色を聴きながら、仕事を捗らせた。

 下校時間ギリギリのところで、吉羅の仕事は終わる。
「日野君、送って行こうか」
「あ、有り難うございます。良いんですか…?」
「ああ。私も仕事が終わったからね。君の家は通り道であるからね」
「有り難うございます」
 香穂子の明るい笑みを見つめながら、吉羅はそれを守っていきたいと思っていた。

 吉羅の車に乗り込み、香穂子はほわほわとした甘い感情がこころに滲んでくる。
 振り子のように揺れていたこころが落ち着いてくるのが解る。
 吉羅へとこころが落ち着いていく。
 香穂子は少しずつこころが吉羅に傾いていることを、感じ始めていた。



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