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その笑顔を今度は自分に向けさせたい。 あの純粋なほどに明るい笑顔が自分のためだけに向けられたら、これ程嬉しいことはない。 もう遠慮はしない。 車の助手席に香穂子が乗り込むのを確認した後で、吉羅は運転席に乗り込んだ。 ハンドルを握りながら吉羅を香穂子を見つめる。 「日野君、気分転換をしないか? スッキリすれば明日からまた頑張れるだろうから」 「理事長、有り難うございます。気分転換をしたいです」 香穂子が嬉しそうに頷いてくれるのが嬉しくて、吉羅も思わず笑みを零した。 「では気分転換と、何か温かなものを食べに行こう」 「有り難うございます。色々と」 香穂子はしんみりと落ち着いた声で言うと、吉羅を真っ直ぐな瞳で見つめてきた。 「私は何もしていない。今夜は私も気分転換がしたいんだよ。それだけだ」 吉羅は車を学院から出すと、夜はとみに美しいみなとみらい地区へと向かう。 「…私ダメですね…」 「どうしたのかね?」 「好きなひとの未来を応援してあげることが出来ませんでした」 香穂子は自嘲気味に笑うと、僅かに俯く。 「これでも応援しようって頑張ったんです。逢えない寂しさとかは、我慢しました。頑張って欲しいって思ったから。だけど駄目でした。私もやっぱり…時々…、頼りたいなあなんて思ってしまったから」 香穂子は一生懸命笑おうとしている。それが痛々しくてしょうがない。 香穂子もコンミスになるために、懸命にもがいていたのだ。土浦に手を差し延べて貰い癒されたいと思っていたのだろう。 だがそれはなされなかった。 重い事実だ。 「理事長には感謝しています。理事長がこうして気分転換に連れていって下さったから、ずっと頑張って来れました。有り難うございます」 香穂子はふんわりとした絹のような笑みを浮かべると、吉羅に頭を下げた。 胸の奥に、今まで知らなかった甘酸っぱい感情が芽生えた。 素直に純粋で前向きな正直。 こちらが手を差し延べたくなる程に一途に頑張れる少女。 吉羅は抱き締めたくなる衝動に駆られる。 先程も本当は香穂子を強く抱き締めてやりたかった。だが、受け止めてやることしか出来なかった。 香穂子が可愛い。 花のように微笑む時も、凜としたまなざしで目標を見据えている時も、妥協しない強さを見せる時も、総てが可愛くてしょうがない。 吉羅は車の運転をしていなければ、きっとこの場で抱き締めていただろう。 「理事長には何も返すことが出来ませんが、コンミス目指して一生懸命頑張ります」 香穂子は力強く言うと、何かを振り切るような泣き笑いの表情を浮かべた。 「…それで良い。君は三月の音楽祭で素晴らしいコンミスを務めてくれれば、それが一番の私への見返りだ。私も君からの見返りを信じて、こうして一緒にいるんだからね」 「…はい」 少しだけ香穂子がしょんぼりとしたような気がした。 その表情を見ていると、子犬のようで本当に愛らしい。 「だから頑張ってくれたまえ。君には期待している」 「はい、頑張ります」 しょんぼりとした中にも笑顔が見受けられて、吉羅は優しい気持ちで微笑んだ。 車を大桟橋に停めると、吉羅は香穂子に降りるように促した。 「夜の海を見るのも良いものだ。満月だしね」 「そうですね。満月の日に見る海は綺麗ですから」 香穂子は、学院のベージュのコートを羽織って、海を眺める。 大桟橋からはベイブリッジが見えて、とてもロマンティックなのだろう。 香穂子は夜景を夢中になって見つめている。 その横顔が余りにも綺麗で、吉羅は息を呑む。こんなにも横顔が美しい女性を、吉羅は他に知らない。 香穂子は不意に口を開いた。 「有り難うございます、理事長。凄く綺麗な夜景です。夜に大桟橋に来るのは初めてだから、新鮮で楽しいです。有り難うございます」 香穂子は素直に言うと、大きく伸びをした。 香穂子を見ていると抱き締めたくなる。 理事長と生徒だから、越えてはならない境界線があるのは知っている。 だが、そんなものなどかなぐり捨てたくなるほどに、香穂子を抱き締めてやりたかった。 何処か痛々しくて、一生懸命我慢している香穂子を。 「…日野君、今日は気分転換に来たんだ。君が私に気遣うために来たんじゃない。だから、素直になれば良い…」 「理事長…」 今まで明るい仮面を着けていた香穂子の表情が曇る。 仮面が剥がれて、素直な感情を抱くことがようやく出来るようになってきた。 「…私…理事長…」 香穂子の声が揺れて、吉羅を涙目で見つめてくる。 もうそんなに強がりを言わなくても良いのだから。 だから抱き締めてやれば良い。 吉羅は不意にに香穂子の腕を取ると、その腕に閉じ込めるように激しく抱きすくめた。 「…理事…長…っ!」 吉羅は香穂子のこころごと抱き寄せて受け止める。 「…感情に素直になるんだ。君はもうこれ以上我慢することはないんだ」 「…理事長…」 香穂子の頭から背中に掛けて愛しげに撫で付けてやる。 「…有り難う…ございます…。…私…理事長がいなかったら、こんなにも頑張れなかった…。ひとりで頑張っているのは楽しいけれど…、途中で、どうしようもないぐらいに疲れてしまうんです…。そんな時に土浦くんにいて欲しいって思っていましたが…、結局はそばにいては貰えませんでした…。だから私…、我慢出来ないぐらいに切なくなってしまって…」 香穂子は涙を素直に零すと、吉羅の胸に縋って泣いた。 今まで、香穂子がここまで感情を露にしたことはなかった。 それほどに辛い出来事だったのだろう。 「…暫くこうしているから、好きなだけ泣くと良い。ただし、今だけだ。明日からまた頑張りたまえ」 「有り難う…ございます…」 吉羅に胸を素直に埋めると、香穂子は泣き続けた。 吉羅はその間、香穂子をあやすように、ずっと背中を撫でていた。 優しくも柔らかい温もり。 もう離したくない。 このままさらってしまえれば良いのに。 これは願望だ。 吉羅は香穂子の躰を強く抱き込みながら、その柔らかさと温もりに癒されていた。 「…理事長…っ!」 甘くて苦しそうな声が、吉羅の恋心を助長させる。 香穂子が欲しい。 どうしようもないほどに。 ずっと香穂子のことを想い、堪えてきた感情が込み上げてきた。 最初は戸惑っていた香穂子も、吉羅の抱擁に応えるように、おずおずと背中に手を回してきた。 この柔らかな優しい温もりを守ってやりたい。 吉羅は香穂子を守るように、強く、強く、抱き締めたままで暫くじっとしていた。 こんなにもこころを騒がせる感覚は、今までなかった。 こんなにもこころを甘く切なく騒がせる香りは、今までなかった。 だがらこそ香穂子は、この香りをずっとかいでいたいと思う。 逞しい胸、そしてこころを騒がせる香り。 それら総てを離したくない気持ちが込み上げてきた。 吉羅の背中に腕を回すと、香穂子は涙を零す。 ずっとこのまま抱き締められていたい。 「…理事長…」 「理事長と言わないで欲しい…。名前で呼んでくれ」 「…吉羅さん…」 名前で呼ぶと、更に胸が切なく燃え上がるのを感じる。 吉羅が好きなのだと。 今や誰よりも好きなのだと、香穂子は気付く。 土浦よりも、誰よりも。 胸が甘く痛んでてしょうがなかった。 |