*恋のゆくえ*

28


 みなとみらいホールの楽屋で、香穂子は静かな想いを抱いていた。
 とうとう本番だ。
 この日のためだけにひたすら前を向いて頑張ってきたのだ。
 初めてのコンミスではあったが、何の気負いもなかった。
 今まで積み上げてきた練習と支えてくれた人々がいるからきっと大丈夫。
 香穂子は静かに思いながら、メイクを終えた。
「日野さん、お届けものです」
「はい」
 香穂子が楽屋ドアを開けると、白いカサブランカの花束を持ったスタッフがドアの前に立っていた。
「吉羅さんからのお届けものです」
「有り難うございます」
 香穂子は見事なカサブランカの花に鼻を寄せて、その香りを楽しむ。なんて高価な香りがするのかと思わずにはいられなかった。
 カサブランカの花束にはメッセージカードが添えられている。
 クローバーをモチーフにしたシンプルなものだ。

 楽屋口で待っている。吉羅

 そのメッセージに、香穂子は一気にときめくように鼓動を撥ねあげさせた。
 直ぐに楽屋を出て、楽屋口へと向かう。ドアを開けた瞬間、吉羅がそこに佇んでいるのが見えた。
「…吉羅さん…」
「本番前に呼び出すのは気が引けたのだが、どうしても君に伝えたいことがあってね…」
「吉羅さん…」
 吉羅はいつものようにビジネスライクな雰囲気を崩してはいないが、瞳の奥は何処か甘い。
「今日は“ホワイトデー”だったね。君には礼をしなければならないからね」
「有り難うございます」
 吉羅はフッと甘い蕩けてしまいそうな笑みを浮かべると、香穂子に小さな包みを差し出した。
「…オードトワレだ。君らしい香りを選んだつもりではいる」
「有り難うございます」
 香穂子は包みを受け取ると、吉羅を見上げた。
「開けても構いませんか?」
「どうぞ。むしろそちらのほうが私にとっては嬉しいかもしれない」
「…はい」
 香穂子は丁寧に包みを開けてオードトワレを取り出す。
 デザインもとても綺麗で優美だ。
「私がふりかけよう」
「有り難うございます」
 吉羅は香穂子に近付くと、耳たぶの後ろに、ほんの少しだけトワレを振り掛けてくれた。
 甘さと官能が滲んだ香りに何処か大人になったような気がする。
 吉羅に再びオードトワレの可愛い瓶を渡されて、香穂子はそれを愛しげに受け取る。
「有り難うございます。好きな香りです…」
「私が一番好きな香りでもあるんだよ。君によく似合っている」
 吉羅は不意に香穂子を抱き締めてきた。
 息が出来なくなってしまう程の抱擁に、幸せが熱く迫ってくる。
「このオードトワレは、私と逢う時だけに身に着けていて欲しい…。構わないかね?」
「はい…」
 吉羅はギュッと抱き締めると、香穂子の髪を撫でた。
「ようやく、こうして君を抱き締めることが出来て私は幸せだよ…」
「吉羅さん…」
 吉羅は、香穂子の頬を撫でると、唇をゆっくりと重ねてきた。
 甘くしっとりとしたキスに、香穂子は崩れてしまうのではないかと思うぐらいに幸せだった。
 キスが終わると、吉羅は香穂子の瞳をじっと見つめてきた。
「…君が好きだ…、香穂子…」
 抱き締められて、恋情が迸る言葉を聴くのは、なんと幸せなことなのだろうかと、香穂子は思う。
「…大好きです…。吉羅さんが本当に大好きです」
 香穂子は涙がこぼれ落ちてくるのを止めることが出来なくて、必死に笑おうとする。
「折角、綺麗にメイクをしたのに台無しになってしまうよ」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、ハンカチで涙を拭ってくれた。
「…だけど、もの凄く嬉しくて…」
「香穂子…」
 吉羅は香穂子の頬をそっと撫でると、そこに優しいキスをしてくれた。
 今まで本当に様々なことがあった。
 コンミスに選ばれ、吉羅に恋をして…。
 辛いこともあったが、今となればみんな優しい思い出になっている。
 それらを乗り越えられなければ、吉羅とはこうならなかったと香穂子は思う。
「さて、化粧を少しだけ直して本番に備えなければならないね。ルージュは私がとってしまったしね」
 吉羅の笑みに、香穂子は頬を染め上げながら頷いた。
「君の晴れ舞台を楽しみにしているよ。上手くいったらお祝いを…、いや…、君なら必ず上手くいく」
 吉羅は確信を持って呟くと、香穂子から名残惜しげに離れた。
「…頑張ってきたまえ。見ているから」
「はい! いつも見ていて下さい! 吉羅さん、これからもずっと見守っていて下さい」
「ああ。いつまでも君を見つめているよ…」
 吉羅は、香穂子を見守るような柔らかな瞳で真っ直ぐ見つめてくれる。
 それが嬉しかった。
「吉羅さん、じゃあいってきます!」
 香穂子は吉羅に手を振ると楽屋へと戻っていった。
 素早く化粧を直して、香穂子は本番に備える。
 大丈夫。
 客席には仲間も大好きなひともいるから。きっといつも以上に力を発揮することが出来る。
「日野さん、時間よ」
 ノックと共に都築が入ってきて、様子を見に来てくれる。
「はい。スタンバイに行きます」
 香穂子は凜と背筋を伸ばしながら笑顔で立ち上がると、楽屋をゆっくりと出て行く。
「頑張りましょうね、日野さん。きっと大丈夫よ」
「有り難うございます。頑張ります」
 香穂子は笑顔で頷くと、ステージへと向かって歩き出した。

 香穂子はオーケストラのメンバーに深々とお辞儀をした後、コンミスの席につく。
 即席で作ったオーケストラではあったが、今や結束力はかなりのものだ。
 香穂子に誰もが笑顔で答えて「頑張ろう」と言ってくれる。
 ヴァイオリンを始めてから、様々な経験をした。しかしこの経験で培った仲間との絆は、宝物だ。
 コンクールメンバー、アンサンブルメンバー、そしてオーケストラメンバー。
 そして吉羅というかけがえのない男性と出会うことも出来た。
 リリには感謝しなければならないだろう。
 香穂子が深呼吸をする。
 いよいよ、コンサートの幕が開く。
 オーケストラメンバー全員で立ち上がり、都築を迎えた。
 コンミスとして指揮者の都築としっかりと握手する。
「頑張りましょう」
「はい」
 都築が指揮台に立つと、香穂子はヴァイオリンを構える。
 お世話になった総ての人々に、この音色を届けたかった。
 無心でヴァイオリンを奏でて行く。
 なのに楽しくてしょうがない。
 ヴァイオリンを弾いている爽快感を覚えながら、香穂子はオーケストラメンバーを引っ張り続けた。
 まだ弾いていたい。
 そう思った瞬間、みなとみらいホールいっぱいのスタンディングオベーションが送られる。
 嬉しさと驚きに、香穂子は目を見張る。
 嬉しさに躰を震わせてながら立ち上がり頭を下げる。
 喝采がこんなにも素晴らしいものだとは思ったことはなかった。
 都築と再び握手をしながら、香穂子は夢ではないかと思ってしまう。
「よく頑張ったわ、日野さん。みんなもそう思っているわ」
 香穂子が振り返ると、オーケストラメンバーの誰もが香穂子に称讃を送ってくれていた。
「私もみんなもまたあなたとやりたいと思っているわ」
 都築の言葉に香穂子は泣きながら「こちらこそ」と頷いてみせた。

 幕が下り、香穂子は愛しいひとを探し出す。直ぐそこにいる、時には厳しくそして優しく見守ってくれる男性。
 香穂子が笑顔を向けた瞬間、吉羅もまた笑顔を向けてくれる。
「吉羅さん…!」
 香穂子が駆け出した瞬間、吉羅はしっかりと抱き留めてくれた。
「よくやってくれた」
「有り難うございます」
「ご褒美は何が良いかな?」
 吉羅の甘い声に香穂子は太陽よりも眩しい笑みで答えた。
「キスが良いです」



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