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「…吉羅さん…」 吉羅に抱き締められるだけで、全身のアドレナリンが熱くたぎるのが解る。 こうして抱き締めて貰えるだけで、幸せな気分だ。 「…本番まで余りない。私は君に無理をさせているという自覚は、正直言ってあるんだよ…。しかし、これが上手くいけば、君の音楽家としてのキャリアが飛躍的に伸びるのは間違いないと思ってはいる。私も出来る限りのことはサポートするから、頑張りたまえ」 香穂子は小さく頷くと、前に回された吉羅の手をぎこちなくギュッと握り締めた。 「君がしっかりと頑張ってくれているのは解ってはいるが…、本当に無理はしていないんだろうね?」 「はい。無理はしていませんから、大丈夫です」 「…そうか」 吉羅の抱擁が更に強くなる。 こうして抱き締めて貰えるだけで、こんなにも幸せな気分になる。 抱き締めて貰えるだけで、ストレスや疲れが何処かに行ってしまう。 「…暫く、こうしていても構わないかね…?」 「はい。こうしていて下さい…」 ふたりはただ黙って静かに佇んでいた。 こうしていられるだけでどれほど幸せか、吉羅は気付いているだろうか。 恋の囁きや、甘い行為が少ない恋。 一緒にいる時間ですらも極端に少ない。 それでも、こうして繋がっていられることが、香穂子にはかけがえのないものとなっている。 吉羅に抱き締められながら、香穂子は夜景を見ることなく、ただ静かにじっとしている。 それだけでストレスが消えて行く。 疲れが霧散する。 じっとしていると、吉羅が柔らかく頬を撫でてくれた。 「平気かね?」 「はい。大丈夫です。有り難うございます」 香穂子が柔らかく笑うと、吉羅もホッとしたように微笑んでくれる。それが何よりも嬉しい。 「沢山頑張る気持ちをチャージすることが出来ましたから大丈夫です。こうして下さるだけで元気が出ます」 「私も君から沢山の元気を貰ったよ。どうも有り難う」 吉羅の言葉に、香穂子もはにかみながら笑う。 「…だが、私としては、君にもう少しチャージして貰いたいがね」 「はい。どのようなことを…」 そこまで言ったところで、香穂子は息を呑む。 吉羅の両手のひらが、香穂子の頬を優しく持ち上げてくる。 目を閉じれば、うっとりしてしまうほどにロマンティックなキスが下りてきた。 唇が待構えていたかのようにしっとりとフィットする。 その甘さに、香穂子は溺れてしまいそうになる。 吉羅にしっかりとしがみついて、香穂子はキスを受けた。 少しずつではあるが、吉羅のキスに応えられるようになってきた。 お互いに唇を吸い上げ、深い角度でキスを交わしながら、しっかりと抱きあった。 キスが終わると、吉羅は香穂子を抱き締めてくれる。 「オーケストラの日は、ホワイトデーだね。私から君に返事をしようと思っている」 「…はい…」 その時に返事を聴かせてくれるというのだろうか。 香穂子は切ない恋の願いを滲ませながら、吉羅に静かに寄り添う。 どうか。 良い返事が聴けますように。 キスをされても、こうして抱擁されても、不安は拭いされやしない。 より好きになってしまった者の罪深さだ。 恋に勝ち負けなんてないと言うけれど、より好きになってしまった者のほうが分が悪いのは確かだ。 「待っています」 「ああ。じゃあ、軽く何かを食べたら送って行こう。今日はそれぐらいしか時間をとってはあげられないからね。すまないが…」 「解っています。こうして気分転換をして下さった事だけでも感謝しています」 「何か食べたいものはないかね?」 「だったら…ラーメンが食べたいです。美味しいラーメンが。理事長には似合わないと思いますけれど」 香穂子がぺろりと舌を出して微笑むと、吉羅もフッと笑う。 「チャーメンだけは勘弁だからね」 「解っています。金澤先生じゃないですから」 「確かに金澤さんはチャーメンがよく…似合うね」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子をもう一度だけ抱き寄せた。 「年度末だから忙しくてね。何とか十四日だけは時間を確保したんだよ。だから、それまでは、今までのように君を連れて気分転換が出来ないんだよ。申し訳ないがね」 吉羅が本当に済まなさそうに言うものだから、香穂子も納得して頷く。 「大丈夫です。吉羅さんが十四日にコンサートを見に来て下さるほうが、私には嬉しいですから」 「だったら良いのだけれどね」 吉羅は香穂子の手を引くと、ショッピングモールの高級中華店に入り、そこでラーメンを注文してくれた。 イタリアンテーラードスーツを着こなす吉羅には、とてもでないが似合わないが。 やってきたラーメンをふたりで手早く啜る。 こうしてラーメンを食べていると、何だかとても親密になったような気分になる。 吉羅とこうして一緒にラーメンを食べるなんて、どうしても考えられなかった。 手早く食事をした後、吉羅は時間がないのにもかかわらず、香穂子を自宅まで送ってくれる。 香穂子はひとりで帰れると断ったのだが、吉羅は送るといってきかなかった。 家に着くと、吉羅は車を降りて送ってくれる。 「風邪など引かないように体調を整えて、しっかり頑張りたまえ」 「吉羅さんも、健康には気をつけて下さいね」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は静かに頷く。 「どうしても疲れた時は、ヴァイオリンを弾いてもらうように君を理事長室に呼ぶとしよう」 「いつでも弾きますから、呼んで下さいね」 「ああ。じゃあ」 「はい。有り難うございました」 香穂子が頭を下げた後、吉羅はフェラーリに乗り込む。程なくしてフェラーリは闇のなかを走り抜けていった。 その姿を見えなくなるまで見送った後、香穂子は家に入る。 沢山チャージをして貰ったのだから頑張らなければと強く思う。 香穂子は充実した疲れに酔い痴れながら、自室へと戻っていった。 翌日から、香穂子は吉羅と顔を合わなくなった。 相当、忙しいらしく、理事長室にいる時間もかなり短いようだった。 今までならば、吉羅を校内で見掛けることもあったのに、今や全く見掛けなくなってしまった。 疲れは溜まっていないだろうか。 体調はどうなのだろうか。 そんなことばかりを気にしてしまう。 吉羅が疲れているならばそばにいってヴァイオリンを奏でることが出来たら良いのにと思わずにはいられなかった。 授業の後、オーケストラの最終リハーサルがあるフェスティバル前日の昼休み、香穂子は吉羅暁彦から呼びだしを受けて、理事長室へと向かう。 理事長室のドアをノックして、香穂子は背筋を伸ばす。 「日野です理事長」 「入りたまえ」 香穂子が理事長室に入ると、吉羅は来客用の応接セットの長椅子の上で横たわっていた。 「理事長!?」 「少し仮眠を取っているところだ…。日野君、すまないが一曲奏でてはくれないかね? リクエストは…“ジュ・トゥ・ヴ”だ」 「はい。分かりました」 吉羅はちらりと香穂子を見つめた後で、目を閉じる。 「ではリクエストにお答えして」 「…ああ…」 香穂子はヴァイオリンを構えると、吉羅の為だけに“ジュ・トゥ・ヴ”を奏でる。 柔らかくも甘い調べを奏でていると、吉羅の表情から疲れがなくなっていくのを感じる。 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅に手招きをされた。 香穂子が吉羅に近付くと、そのまま抱き寄せられる。 「…有り難う…」 その一言に香穂子は静かに頷いた。 |