*恋のゆくえ*

26


「今夜は送らせて欲しい。君さえ良ければ、軽く何かを食べて行こうか?」
「有り難うございます。嬉しいです」
 吉羅に微笑むと、優しく手を繋いでくれた。
 ほんの何気ない仕草。
 それだけでもこんなにドキドキして幸せな気分になる。
 香穂子は、吉羅の大きな手が、ずっと自分を包み込んでくれていたら良いのにと、思わずにはいられない。
 楽屋の廊下に来ると都築の姿を見つけ、ふたりは手を放した。
 本当は放したくなどなかったが、今はしょうがないと思う。
「…あら、お二人ともご一緒でしたのね。私はそろそろ失礼します…」
 都築はにっこりと微笑むと、香穂子の手を取る。
「日野さん、お互いに頑張りましょうね。オーケストラコンサートまで後一月。今まで以上の努力をして貰わないといけないけれど…、きっとあなたならば出来ると信じているわ。頑張りましょう」
「はい!」
 ギュッと手を握り締められて、香穂子もその手を握り締める。
 ふたりで素晴らしいオーケストラを作っていくのだ。
 香穂子は都築とならば、春に相応しいオーケストラを作っていけると、強く思う。
 そしてそれは香穂子の音楽キャリアの第一歩なのだ。
「では。帰ります。お二人ともお気をつけてお帰り下さい」
 都築は颯爽とふたりの前から辞する。
 そのタイミングで、吉羅が手を握り締めてきてくれる。
「さて、私たちも行こうか。軽く食事をして、帰ろう」
「はい。有り難うございます」
 香穂子は手早く荷物を片付けると、吉羅と一緒に駐車場へと向かう。
 まだ慣れない吉羅の愛車の助手席。
 ここに慣れることなんてあるのだろうか。などと、ドキドキしながら考えてみる。
「日野君、助手席にはそろそろ慣れて貰わなければならないね。いずれ先のためにも」
「あ、はい…」
 意味深にフッと甘さを滲ませて微笑まれて、香穂子は頬を薄く赤らめる。
 僅かに俯くと、吉羅の指先が一瞬、香穂子の頬に触れた。
 香穂子が恋心に潤んだ瞳で吉羅を見上げると、僅かに唇をあげてくれる。
 それが嬉しかった。
 吉羅は車を出して、港の夜景が美しく堪能することが出来るレストランバーへと連れていってくれた。
 いつもの制服ではないから、大人の女になった気分になり、幾分か華やいだ気持ちだ。
 吉羅と釣り合うことが出来れば良いのにと、香穂子は思ってしまう。
 港が見える席に腰掛けてふたりは軽く食べ物を頼んだ。
 いつも沢山食べる香穂子ではあるが、今夜は流石に胸がいっぱいで、余り食欲がなかった。
 それはきっと幸せなことなのかもしれない。
 軽く食べながら、ただ吉羅を見つめてさえいられれば、香穂子はそれで幸せだ。
「明日からはまた忙しくも大変な日々になるが、頑張ってくれたまえ。君なら乗り越えていくことが出来ると、私は思っているよ」
「有り難うございます。一生懸命頑張って、都築さんとオーケストラの皆さんと一緒に、素晴らしいステージを作り出せるように頑張ります」
「私も出来る限りのサポートをしよう」
「有り難うございます。こうして一緒にいて下さるだけで、私はとても幸せに癒されるんですよ」
 香穂子が甘くにっこりと微笑むと、吉羅は頷いてくれる。
 大人でスマートな微笑みに、香穂子は頭がくらくらしてしまうほどに感じていた。

 食事が終わった後、吉羅は香穂子を家まで送り届けてくれる。
 短いドライブに泣きたくなる。
 せめてもう少しだけ一緒にいられたら良いのにと思わずにはいられなかった。
 みなとみらいの夜景をふたりで見たい。
 ただふたりでいられれば、それで幸せなのだから。
 だが、もう少しだけ一緒にいたいとは、香穂子からは恥ずかしくてなかなか言い出す事が難しい。
「日野君、もう少しだけこの辺りを回ってから、帰ろうか」
「本当ですか!? ものすごく嬉しいです!」
 香穂子が屈託なく笑うと、吉羅も微笑みながら車を夜景が美しいみなとみらい周辺へと出してくれる。
 本当に美しい夜景だ。
 吉羅とふたりで見ているだけで、特別な空間になる。
「やっぱり、みなとみらいの夜景は最高に綺麗ですね」
「そうだね…」
 吉羅はそっと香穂子を抱き寄せて唇を重ねてくる。
 甘くて蕩けそうになるキス。
 吉羅とキスを交わすのは、これで何度目なのだろうか。
 甘いキスは、香穂子を女に変えていく。
 こんなにも幸せな気分に浸れるなんて、こんなに素晴らしい魔法は他にないと香穂子は思う。
 唇が離れた後、吉羅は香穂子の頬を撫でる。
 それだけで夢見るような気持ちになった。
「…頑張りたまえ。私も君を見ているから」
「はい。見ていて下さい」
 吉羅が頷いてくれるのを、香穂子は笑顔で受け取る。
 こんなにも幸せな感覚は他にないのではないかと思った。

 アンサンブルコンサートの成功に酔い痴れている暇などなく、翌日からはハードなオーケストラの練習が待っていた。
 本番はホワイトデー。
 実質四週間しかない。
 休みも総ての時間も返上しなければならないハードなものだ。
「日野さん、体力勝負なところがあるから、くれぐれも体調は気をつけて頑張ってね」
「はい。有り難うございます。しっかりと頑張りますね」
 香穂子は、春の陽射しを思い浮かべながら、未来だけを想い、努力を始める。
 本当は努力なんかじゃない。
 こうしてヴァイオリンに関わっていられるだけで、幸せでしょうがないのだから。
 ヴァイオリン。仲間。そして吉羅…。
 なんて恵まれているのだろうと、香穂子は思わずにはいられない。
 くたくたになるまでヴァイオリンを弾き、メンバーの調整にあたる。
 コンミスは縁の下の力持ちだから、見えない部分で努力をしなければならない部分が大きい。
 練習が終わり、心地好い疲労を引き摺りながら、香穂子は学院の校門を抜ける。
 コンミス試験はなくなり、吉羅と理事長室で顔を合わせる事もなくなってしまった。
 オーケストラの出来栄えは、都築が吉羅に報告をしてくれているから、香穂子が出向く必要もない。
 多忙な吉羅を校内で見掛けることもなくて、寂しさと切なさが募った。
 逢いたいのに逢えないのが辛い。
 吉羅のキスが恋しい。
 あのキスは戯れだったのだろうか。
 家までゆっくりと歩いていると、背後からクラクションが聞こえて、香穂子は立ち止まる。
 すると吉羅の愛車フェラーリが静かに停まった。
 吉羅が車から降りてくる瞬間にときめきを覚えながら、香穂子は待つ。
「日野君、今、帰りかね?」
「はい」
「だったら少し時間半あるかね? オーケストラについて話をしたくてね。直ぐに済む」
「はい、大丈夫です」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅は頷いて助手席のドアを開けてくれた。
 香穂子が車に乗り込んでシートベルトをすると、吉羅はそのタイミングで車を出してくれる。
「日野君、オーケストラが順調であることは都築君から聞いている。君も随分と骨を折ってくれているということもね。頑張ってくれているようだね」
「微力ですが、精一杯、できる限りのことをしようと思っています」
「だが、無理は禁物だ。解っているだろうね」
 吉羅はちらりと香穂子を見ると、厳しい声で言う。
「無理をしていないつもりですから、大丈夫です。後、少しですから」
「ああ」
 吉羅は頷くと、車を夜景の見える場所に停める。
「今夜は余り時間が取れないが、君は気分転換が必要だろう? 夜景でも見てリフレッシュしたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は車から降りて、横浜の夜景を見つめる。
 その瞬間、吉羅に背後から抱き締められた。



Back Top Next