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幕が開いた瞬間、吉羅の姿が視界に飛び込んできた。 優美な艶やかさを持つ大人の男性。 恋をするには背伸びをし過ぎていることは、充分過ぎる程に解っている。 だからこそ。せめてこのヴァイオリンの音色だけでも、堂々と渡り合いたかった。 ひとりの女として受け入れて貰えるように。 もう“女の子”ではないから。 香穂子は深呼吸をすると、ヴァイオリンを構えて奏で始めた。 吉羅のこころに響くように。 一緒に頑張ってくれたアンサンブルの仲間たちに届くように。 理事たちに届くように。 支えてくれたひとに届くように。 ここにいる総ての人達に届くように。 香穂子はひたむきな気持ちでヴァイオリンを弾く。 楽しいこと、辛いこと、幸せなこと…。 それら総ては、ヴァイオリンが教えてくれたから。 曲を奏で終わる度に、拍手の波が大きくなる。 そして最後の曲を奏で終えた時。 理事たちも含めて、スタンディングオベーションが香穂子たちに向けられた。 誰もが惜しみない拍手をくれる。 その響きが温かくて、香穂子の瞳に涙がこぼれ落ちた。 決して知られないように、さり気なく隠すのが大変だった。 深々と礼をしながら顔を上げると、吉羅が満足げに深く頷いてくれるのが見える。その整い過ぎた顔には、 温かな笑みが浮かんでいた。 吉羅がいたからこそここまで来ることが出来たのだから。 有り難うを込めて、香穂子は更に深く頭を下げた。 吉羅は、演奏中も香穂子の姿だけを追っていた。 今日の香穂子は本当に美しいと感じていた。 こんなに綺麗な女性は他に知らないとすら吉羅は思う。 ヴァイオリンの音色も、今まで聴いた中では、最も優れていた。 温かくて澄み切った音色は今まで以上に力を増していたが、それと同時に、女としての艶やかさが滲んでいた。 ヴァイオリンの音色ですらも、いつの間にか大人の女になっていたのだ。 本当に、こんなにも綺麗な香穂子に、更にこころを奪われてしまう。 吉羅は、香穂子への愛情が際限なく高まっていくのをひしひしと感じていた。 吉羅が香穂子に微笑み掛けると、まるで返事をするような微笑みを返してくれる。それがまた吉羅のこころを蕩けさせた。 アンコールの演奏が始まり、誰もが陽気に音楽を楽しんでいる。 理事たちもすっかり香穂子の音色に魅了されていたようだった。 これで大丈夫だ。 香穂子はもう理事たちに心無い言葉を投げられる必要はなくなるだろう。 それどころか、手を差し延べてすら貰えるかもしれない。 これは香穂子が自分の手で手にしたものなのだ。幸せは自分の手で掴むものなのだと、吉羅に教えてくれているような気がした。 何度もスタンディングオベーションがあり、香穂子は笑顔でそれに応えている。 とても魅力的な顔をしていた。 幕が閉じた後、理事たちは完敗とばかりに、吉羅に声を掛けるかけてくる。 「今日のアンサンブルコンサートはとても良かった…。日野香穂子はきちんとコンミスを勤めてくれるでしょう」 異口同音に恭しく言うと、悔しさを表すこともせずに完敗とばかりに、会場を後にしていた。 吉羅は僅かに口角を上げる。 理事たちをやり込めたのが嬉しいのではなく、香穂子を認めてくれたことが吉羅には何よりも嬉しいことだった。 吉羅はゆったりと立ち上がると、香穂子に事実を伝えに行く。 これ程爽快な想いは久し振りかもしれなかった。 吉羅は香穂子の元に向かう。 今日はバレンタインデーだ。 香穂子としては余り時間を取りたくないのかもしれない。 だが、ゆっくりと話したかった。 今夜だけは祝福をしてやりたかった。 アンサンブルコンサートが終わり、香穂子は放心状態で、椅子に腰掛けていた。 理事たちがどう思ったかは分からないが、自分なりにベストを尽した結果だ。 どのような結果でも受け入れる。 不意にノックが響き渡る。 「日野さん良いかしら?」 都築の声に、香穂子は背筋を伸ばす。 「はい」 香穂子がドアを開けると、吉羅と都築が立っていた。 ふたりは楽屋の中に入ると、周りにアンサンブルメンバーを見渡して薄く微笑む。 「日野君、理事たちが君をコンミスに認めた。期待している…そうだ。良かったね」 吉羅はいつも通りのクールな声で言うと、香穂子を真っ直ぐ見つめた。 コンミスの地位をこの手で掴み取ったのだ。 今までの苦しいことや楽しいことが胸に去来して、香穂子は泣きそうになる。 「あ、有り難うございます」 香穂子が笑顔で泣きそうになりながら言うと、吉羅はフッと微笑む。 「よく頑張った。だが、オーケストラコンサートまでは後一月しかない。更に努力をするように」 吉羅は理事長として、香穂子にキッパリと言い切る。 「日野さん、これからが大変だけれども、一緒に頑張りましょうね」 都築は優しい笑みを浮かべていたが、よりその口調は厳しいものになっていた。 「頑張りますから、これからも宜しくお願いします」 香穂子は深々と頭を下げると、更なる飛躍を誓った。 吉羅たちが楽屋を出るのを見送る時、香穂子は鼓動を激しくさせながら、吉羅を見上げた。 チャンスは今しかない。 今なら吉羅に伝えることが出来るはずだ。 好きと感謝の気持ちを。 今日は折角のバレンタインデーなのだから。 香穂子はあからさまな深呼吸をすると、吉羅を見上げる。 「あ、あの、理事長! 少しだけお時間はありますか?あ、あの…お話したいことがあるので、楽屋口に出て頂けると、嬉しいです…」 香穂子は思い詰めるかのように吉羅を見つめる。 どうか、時間があると言ってくれますように。 香穂子が心臓を震わせながら呟くと、吉羅はフッと微笑みをくれた。 「解った」 吉羅のあっさりとした言葉に、香穂子はにっこりと緊張した笑みを浮かべる。 「が、楽屋口で待っていて下さい。直ぐに行きます」 「解った」 吉羅が先に楽屋口に行ってくれたのを見計らって、香穂子は吉羅へのバレンタインプレゼントを持っていく。 フラれても構わないから。 ただ自分の気持ちを精一杯伝えたかった。 きちんと伝えれば、それで良いから。 吉羅とふたりきりで、みなとみらいホールの楽屋口に立つ。 「理事長、ここまで支えて下さって有り難うございました。理事長がサポートして下さったから、私はここまで 頑張ることが出来たんです。本当に有り難うございました」 香穂子は深々と頭を下げた後で、バレンタインの本命プレゼントを吉羅に差し出す。 吉羅はそれを静かに受け取ってくれた。 「有り難う日野君。確かに受け取らせて貰う…」 「有り難うございます」 泣きそうになるほどに嬉しくて、香穂子は顔をクシャクシャにする。 「理事長が…、“おまじない”をしてくれたから、ここまで頑張れたんです。私…理事長が…好きだから…」 “好き”という言葉が掠れてしまう。 吉羅は暫く沈黙を守っていた。 香穂子は、吉羅に恋心を拒絶されたのではないかと不安になって、涙がこぼれ落ちてしまう。 だが見られたくない。 泣いているなんて知られたら、きっと吉羅には軽蔑されてしまうだろうから。 「…日野君…」 優しい深い声が近くに聞こえる。 その瞬間、香穂子は思い切り力強く抱き締められていた。 大人の男の苦しい程に強い抱擁に、香穂子は泣きたくなる。 「…有り難う…」 次の瞬間、しっとりと唇が重なっていた。 |