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お腹が空いた。 もう限界だと思いながら、香穂子はビルの清掃にあたっていた。 吉羅コンツェルンの本社ビルは気が遠くなる程に広くて、クリーンスタッフは山程いる。 香穂子もそのうちのひとりで、夜遅い時間の清掃業務を行なっている。 理由は時給がかなり良いからに他ならない。 今夜は、役員室の掃除を任され、香穂子は黙々と仕事に精を出す。 ここの社長はかなりのやり手で、しかも俳優以上の容姿をした若い独身貴族と聞く。 だが香穂子にはそんなことなど興味はなかった。 興味があるとするならば、いかにして食べて行くか、いかにしてヴァイオリンの勉強をするか。それだけだ。 ハンサムなCEOにあわよくば玉の輿を狙おうとしている女性スタッフが多いからか、役員室の掃除はいつも高齢の男性と相場が決まっていた。 しかしいつも担当していた男性が、ぎっくり腰で急に仕事に来られなくなってしまい、その役割が香穂子に巡ってきた。 理由は単純だ、香穂子がCEOに全く興味がないからなのだ。 ただ与えられた仕事を着実にするだけだ。 しかも役員室の掃除には手当てが出る。 香穂子にとって重要なのはそこだった。 それ以上に大切なものはない。 役員室の住人が誰かというよりは、香穂子にとっては時給が総てだった。 「日野さん、頼んだよ。君が一番ちゃんとやってくれそうだからね」 「五右衛門のおじさんが戻って来るまでは頑張ります」 「頼んだよ」 香穂子はしっかりと頷くと、役員室へと向かった。 この掃除が終われば、ようやく給料にありつける。 ここのところ、ヴァイオリンのメンテナンス費用がかさんでしまい、ずっとコンビニのおにぎりひとつの生活を続けていたのだ。 給料が入ったからといっても、そんなには期待出来ない。 せめての贅沢は、近くのラーメン屋での鶏しおラーメンとギョーザのセットを食べるぐらいだ。 それを目指して、香穂子は所持金二百円で踏ん張っている。 昼間は住み込みで働いている楽器店で店員をし、夜はヴァイオリンのレッスン、そして深夜は掃除婦。 体力的にもギリギリの生活だ。 清掃会社の制服に身を包み、髪を帽子のなかにしっかりと入れて、地味を装っていた。 お腹が空いた。 ペコペコでどうにかなってしまいそうだ。 だが、頑張るしかない。生きていかなければならないのだから。 香穂子は、渡された特別階のセキュリティ解除キーを使って、ドアを開けた。 ゆっくりとドアは開き、香穂子はそこから役員室に入って、淡々と仕事を始めた。 お腹が空いてくらくらする。最早、食欲のみの女だ。 香穂子は掃除に集中するように努めるが、なかなか出来なかった。 瀟洒で豪華な役員室のしつらえを横目で見ながら、同じ人間なのにどうしてここまで住む世界が違うのだろうかと思わずにはいられない。 こんな部屋なんかいらないから、せめてまともに食べていけたらと香穂子は思わずにはいられなかった。 掃除をしていると本当にくらくらする。明らかに栄養不良なのは解っている。 しかし、身内のいない香穂子には、誰からも援助が受けられないせいで、こうするしかなかった。 掃除をしているうちに目眩がくる。 もうだめだと思った瞬間、香穂子は意識を失った。 意識の遠くで、誰か逞しい腕にしっかりと受け止められたような気がした。 目を開けると、完璧に整った男性の顔が、視界に入り込んできた。 「あ、あの…」 香穂子は、目の前の男の余りに整った顔で睨み付けられてしまい、思わず肩を竦めた。 「…大丈夫かね!?」 「大丈夫ですが…お腹がペコペコで…なだけで…」 香穂子はバツの悪さに苦笑いを浮かべた。 「…お腹が…ね…」 男はニヤリと笑うと、香穂子をそっと抱き起こしてくれる。 「確かに君はかなり痩せていて栄養不良気味にしか見えないね。何か注文しよう。栄養が取れるものをね。君は座って待っていなさい」 男はさらりと言うと、香穂子をソファに座らせたまま、立派な大理石調のテーブルに行くと、電話をかけている。 「私だ。すまないが役員室に出前を頼めないかね。ああ、何でも構わない」 男は電話を終えると、ゆっくりと香穂子に近付いてきた。 「いつもは五右衛門さんがここの掃除をしてくれているはずだが、今日はどうしたのかね?」 「五右衛門のおじさんですが、ぎっくり腰になってしまって当分来られないんです。で、私がこのフロアーを頼まれたんですが…、すみません、倒れるような失態をしてしまって…。ご飯をここのところ、まともに食べてはいなかったんです…」 「…ったく…。どうしてそういう状況になる前にどうにかしなかったのかね?」 男は呆れ果てたように言うと、神経質そうに綺麗な眉を潜めた。 「自分でどうにか出来るんだったら、どうにかしていますよ…。どうにか出来なかったんですっ。ヴァイオリンのレッスン費用がかさんだので、食費まで回せなくて」 香穂子はしゅんと肩を落とすと唇を尖らせた。 「君は自分の健康とヴァイオリンとどちらが大事なのか解っていないようだね…。ったく、健康を犠牲にしてまでの趣味なんてありえない」 男は斬って捨てるように言うと、香穂子にあり得ないとばかりの視線を向けて来た。 「趣味ではありません。ヴァイオリニストになるのが、私の夢なんです! だから夢に向かって頑張っているんです。ひとりで生活していかなきゃならないですから、色々と頑張らないといけないですが…、それでも、ヴァイオリニストになる夢だけは捨てたくないんです」 いつもよりも妙に熱くなってしまい、自分でもほんの少しだけ恥ずかしい気分になってしまう。 だが、香穂子の熱さとは裏腹に、男は冷めたまなざしを向けてきた。 「家出でもしたのかね? こんな生活をしているのなら援助を頼めば良い」 男は当たり前のようにさらりと言うと、香穂子を嘲笑するように見つめてきた。 「…だって…私には、援助を頼めるひとなんていませんから…。肉親はひとりもいないですから、こうしてひとりで頑張るしかしかないんですよ」 香穂子は自分の経済状況が情けなくて唇を噛み締めると、男は何処か切なそうなまなざしをした。 「すまなかったね…」 「いえ。しょうがないですから。この状態で前向きにやっていくしかないですから」 努めて明るく言ったところで、デリバリーがやってきた。 男は直ぐに役員室を開けてデリバリーしたドリアとサラダを受け取ると、香穂子の前に差し出してくれた。 「しっかりと食べたまえ。体力をつけたら、今日はもう帰るんだ」 「有り難うございます。これを食べたら、また仕事を頑張れます。力が出てきますから。それに掃除を終えたら、バスで送ってくれるので」 香穂子は遠慮なく食事を始めた。 香穂子ががつがつと食べている間、男はじっと見つめて来る。 恐らくこんなにがつがつと食事をする女が珍しいのだろう。確かに目の前の男は、品の良いスマートな女性を恋人に選んでいそうだ。 香穂子は綺麗に平らげると、改めて男に深々と頭を下げる。 「…有り難うございました。お陰様で助かりました」 礼を述べた後で香穂子はちらりと男を見る。 「…あ、あの…、清掃会社にはこのことは…言わないで下さいますよね…?」 男は一瞬眉根を寄せると、渋い顔ではあるが頷いてくれた。 「…解った…。君にはこの仕事が必要だということだからね。そうするとしようか…」 「有り難うございます」 理解のあるひとで良かったと、香穂子はホッとする。 「では掃除を始めます。色々有り難うございました」 香穂子は頭を下げると、モップを持って掃除を始める。 胸にほんのりと甘い感情を抱いて。 |