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「今日も役員室の掃除ですか?」 あんなことをしでかしたのに、どうして担当が変わらないのかと不思議に思いながら、香穂子は担当リーダーを見上げた。 「きちんと掃除をしてくれていると、クライアントからは好評でね。君が全く邪な気持ちを抱かないところも、良いらしい」 「…はあ」 玉の輿だとかそんなことには全く興味がないから、香穂子はそこが気に入られたのかもしれないと思う。 だが、昨夜はあのような失態を演じてしまった上に、ご飯までご馳走になってしまった。 こんな掃除婦は何処にもいないだろう。 別段、男の気を引く気もないのだが。 「判りました。じゃあ五右衛門さんが復帰するまで頑張りますね」 「お願いします」 香穂子は細身で沢山の掃除道具を抱えて、業務用のエレベーターで上がる。 今日はちゃんと事前におにぎりを食べていたから、途中で倒れることもないから大丈夫だ。 香穂子は広い役員室の端から掃除を始める。 男が昨日いた部屋にたどり着く頃には、恐らく帰った後だろう。 いつもは誰もいなくなる時間に掃除が終わるのが常になっている。 掃除に一生懸命になっていると不意に声を掛けられた。 「精が出るね」 ヴェルヴェットの夜のような声が上から下りてきて、香穂子は顔を上げる。 昨日、助けてくれた男が、今夜も隙のない姿で立っていた。 「昨日は有り難うございました。今日はちゃんとご飯を食べて来ましたから、大丈夫です」 屈託なく言うと、男の瞳はほんのりと緩んだ。 「…夜食にサンドイッチを用意したのだが、一緒に食べないかね?」 男は魅力的なサンドイッチが入った皿を、香穂子に差し出す。 本当に美味しそうで、香穂子は思わず喉を鳴してしまう。 「…あ、あの、仕事中ですから…」 「私もだよ。息抜きをするには相手が必要でね。出来たら君にお相手願いたいのだが」 「あ、はい。だったら…」 香穂子は素直に男の提案を受け入れることにした。 男が仕事をしている立派な机の前にある応接セットの上に、軽食が並べられている。 いかにも二人分の量だ。 「しっかり食べたまえ。君は些か栄養不良気味だからね」 「…有り難うございます」 きっとこの華奢な躰を見て憐れんでいるのだろう。 昔から食べても太らない体質なので、この体型のままであったりするのだが。 「頂きます」 香穂子は一言断ってから、サンドイッチにありついた。 「ヴァイオリンを勉強しているそうだが、コンクールに出たりしているのかね?」 「日本音楽コンクールに出て、ヴァイオリン部門では賞を頂きました」 香穂子の唯一の栄冠だ。 他のヴァイオリニストの卵のように、海外のコンクールに出場する経済的な余裕もないせいで、こうして日本 国内のコンクールにしか出ることが出来ないのだ。 「…そうか。では一度、私に聴かせては貰えないかね?」 男が真っ直ぐ見つめてくるものだから、香穂子はときめきで喉が詰まりそうになりながら見つめ返す。 「…是非! 昨日と今夜の食料のお礼もありますし…!」 誰かに聴いて貰えるという行為が嬉しくて、香穂子は声を弾ませる。 「だったら明日、私に聴かせて貰えないかね? ヴァイオリンを」 「判りました。ヴァイオリンを持って仕事に来ます!」 「有り難う、頼んだよ」 「はい、あの…!」 名前を呼ぼうとして、香穂子は男の名前を知らないことに、今さらながらに気が付いた。 「あ、あの、私…、あなたの名前を知らなくて…。あなたの名前はなんておっしゃるんですか?」 男は知らなかったのかとばかりに驚いた視線を向ける。 会社の役員なんて誰だろうが香穂子には関係がないから、名前をいちいち調べなかったのだ。 「吉羅だ。吉羅暁彦だ」 男は名乗ると、名刺を差し出してくれた。 吉羅コンツェルンCEOと書かれている。 若いCEOだとは聞いてはいたが、ここまで若いとは正直思わなかった。 香穂子があんぐりと口を開けて見つめると、男は苦笑いを浮かべる。 「この部屋を使うということは、私が役員であることは想像がついただろう?」 「つ、つかなかったですよっ! だ、だってこんなに若いCEOなんて聞いたことがないですし、それに正直、 CEOが誰かなんて、掃除をする私には関係ないし…」 香穂子がしどろもどろに呟くと、吉羅は確かにと頷いた。 「君みたいな若い掃除婦は初めてだよ」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子をほんのりと優しいまなざしで見つめてくれる。 「では明日、ヴァイオリンを聴かせて貰おう。君の実力がどれ程のものか、私も知りたい」 「判りました。明日はヴァイオリンを持ってきます」 「ああ。楽しみにしている」 「では、私は掃除に戻ります」 香穂子は立ち上がると、再びモップを持って掃除を始める。 明日、ヴァイオリンを弾くことが出来る。それだけで本当に嬉しいと思う。 誰かに楽しんで貰うために弾くヴァイオリンは初めてだから、香穂子は幸せな期待を抱いていた。 翌日、仕事場にヴァイオリンを持ち込み、香穂子は楽しみながら作業着に着替えた。 吉羅暁彦しか観客はいないだろうが、それでも聴いてくれるひとがいるだけで嬉しい。 香穂子は掃除道具にヴァイオリンを忍ばせると、そっと役員室へと向かった。 役員室に入ると、気配を感じたのか、吉羅が直ぐにやってくる。 「お嬢さん…、よく来たね。先ずは腹拵えは如何かな? 今日は鮨が用意してある」 「お鮨ですか!」 鮨なんて贅沢なものはいつから食べていないだろうか。本当に思い出せない程前だ。 香穂子は思わずニンマリと笑うと、吉羅はおかしそうに笑った。 「だったら、早く食べたまえ。その後にヴァイオリンを聴かせて欲しい」 「はい。了解しました」 香穂子はわざと敬礼をすると、吉羅は更に微笑む。 「こちらに用意している。食べなさい」 「はいっ! 有り難うございます」 香穂子はヴァイオリンをしっかりと抱き締めながら、吉羅の後に着いていった。 「わあっ!」 香穂子は思わず歓声を上げながら吉羅を見上げる。 香穂子が気を遣わないようにという配慮だろう。きちんと一人分おりに入れられている。 どれも高級そうなネタばかりで、こんなものは食べたことなどないと、香穂子は内心思っていた。 「さあしっかりと食べたまえ」 「有り難うございます」 香穂子は鮨をしっかりと拝んだ後で、手拭きで手を拭いて、鮨を食べ始める。 「本当に美味しいです! CEO! こんなに美味しい鮨は初めてかもしれません! 有り難うございます」 香穂子は、本当に嬉しくて堪らなくて、声を弾ませる。 その声に反応したか、吉羅は口角を上げて見ている。 まるで動物を見ているかのように見られているような気がして、香穂子はほんのりと恥ずかしくなった。 「さてと食べ終わりましたので、ヴァイオリンを弾きます」 香穂子がヴァイオリンケースを開けると、吉羅は笑みを引っ込めてしまった。 「お嬢さん、サティの“ジュ・トゥ・ヴ”は弾けるかね?」 「大丈夫です」 暗譜は得意なので、有名な曲のスコアは大概覚えている。 「じゃあ、お願いしようか」 「はい」 香穂子は力強く頷くと、ヴァイオリンを構えて深呼吸をする。 ヴァイオリンだけに集中すると、香穂子は“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。 美しく優雅なのに、熱情が迸る曲だ。 香穂子は集中して曲を奏でる。 吉羅のこころに届きますように。 その願いを込めながら、香穂子は演奏をした。 ヴァイオリンを奏で終わっても、吉羅は目を閉じたままでじっとしている。 余り好きではなかったのかと不安になった時、ゆっくりと吉羅の瞳が開かれる。 「お嬢さん、今度、うちで行なわれるパーティでヴァイオリンを奏でてみないかね?」 意外過ぎる言葉に香穂子は息を呑んだ。 |