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「…私が…、パーティでヴァイオリンを奏でるんですか…?」 香穂子は俄かには信じられなくて、吉羅の言葉を反芻する。 「そうだ。うちの会社が主宰する財界人たちが集まるパーティが来週行なわれる。そこでヴァイオリンを演奏してみないかね?」 吉羅は香穂子の瞳を真っ直ぐ見つめながら言う。 嘘を吐いているようには見えない。 吉羅は全くの本気なのだろう。 こんなに大きなチャンスは今まで巡っては来なかった。 これといった後ろ盾のない香穂子には、今までヴァイオリン演奏の本格的な依頼はなかった。 「…本当に、良いんですか…? 私なんかが、そんなところで演奏して…」 「君のヴァイオリン歴については調べさせて貰った。日本音楽コンクールの第1位のプレイヤー以上に相応しい人間はいないだろう。だから、私は、君に是非頼みたいと思っている」 「有り難うございます」 財界の名士が集まるパーティで、果たして吉羅が望むような演奏が出来るかどうかは解らないが、是が非でも挑戦したいものだ。 「有り難うございます。是非、受けさせて下さい。頑張りますから宜しくお願いします」 香穂子は深々と頭を下げる。 「こちらこそ宜しく頼みます。君のヴァイオリンは、パーティに良いアクセントになるだろうから。私も君のヴァイオリンを聴けるのを楽しみにしている」 「有り難うございます」 パーティで演奏するのはかなり緊張するが、ベストを尽くしたい。コンクール以外でこんなに解放感溢れる演奏をすることは出来ないから。 「来週だからね。詳細はこちらに書いてあるから、目を通しておいて欲しい」 「有り難うございます」 香穂子は吉羅から封筒を受け取ると、もう一度頭を下げた。 「では、掃除に戻りますね」 香穂子は、ヴァイオリンと封筒を大切に片付けると、掃除に集中することにした。 こんなにも幸運が起こるなんて、信じられないと思いながら、香穂子は役員室の掃除に向かう。 これもこの部屋の掃除に当たったからだ。 香穂子にとっては、幸運の部屋といっても良い。 いつものように掃除に入ると、吉羅が香穂子の前に現れた。 「こんばんは、吉羅CEO」 「こんばんは。さて、今日は掃除をしなくても構わないから、掃除道具はこちらに置いておいてくれ」 「えっ? 掃除しなくても良いなんて、それは職場放棄と同じような気がします」 「別のクリーンスタッフを頼んでいるから、心配しなくて良い」 「あ、あの。じゃあ…私はクビですか」 がつがつ食べてばかりいるクリーンスタッフは、普通は必要としないのだろう。 香穂子はしゅんと肩を落した。 いくらヴァイオリンの演奏の依頼を受けたとしても、仕事がクビになってしまえば何にもならないのだ。 食べてすらいけなくなる。 香穂子が不安げ吉羅を見上げると、フッと微笑んだ。 「君は今のままうちのクリーンスタッフだよ」 「良かった…」 香穂子がホッとしたように溜め息を吐くと、吉羅は何処か見守るようなまなざしを向けて来てくれた。 兄のように思ってくれているのだろう。 「有り難うございます。気を遣って下さって…」 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅は頷いてくれる。 「急な依頼をしてしまったからね。後一週間しかないからね。済まないが頼んだよ。明日から一週間はヴァイオリンの練習に集中してくれ。…練習場所はここで構わない。奥に部屋があるから、そこを使うと良い。防音がされているから、君も安心だろうからね」 「有り難うございます」 香穂子が素直に頭を下げると、吉羅は薄く笑ってくれる。 その笑顔の甘さに、香穂子はこころがとろとろと蜂蜜のように蕩けてしまうのではないかと思った。 「日野君、君は演奏用のドレスを持っているのかね?」 「一応は…。自分で作ったものですけれど…」 香穂子が呟くと、吉羅は頷いた。 「では、演奏用のドレスは私が用意しよう。構わないかね?」 「え、あ、そ、そんなとんでもないですっ!」 ここまで気を遣って貰っているというのに、これ以上は甘えることなんて出来ないと香穂子は思う。 「…甘えられないです。そこまでは…。私…CEOにご迷惑をかけてばかりだし…」 香穂子は申し訳ない想いでいっぱいで、唇を噛み締めた。 「そんなに心配しなくても構わない。こちらが逆に無理を言っているのだからね」 「本当に有り難うございます」 香穂子が頭を深々と下げると、吉羅はいつものような少しクールな瞳になる。 「…明日、早速だがドレスを買いに行こうか。明日の予定はどうだね?」 「夕方まで仕事があります。その後は掃除の仕事です」 「…だったら大丈夫だね」 「はい。有り難うございます」 「では明日6時に社の受付に来てくれ。いいね」 「はい。有り難うございます」 こんなにも夢見るようなことがあって良いのだろうか。 本当にうっとりとしてしまいたくなるような、そんなことばかりが起こっている。 「それでは仕事に戻ります」 「ああ。頑張ってくれたまえ」 吉羅は低い声であっさりと言うと、直ぐに仕事に戻ってしまう。 香穂子も夢見るような時間が消えたのだと想い気分を引き締めると、掃除に集中し始めた。 翌日、香穂子は約束の時間キッカリに、社の受付に来た。 ショッピングに行くということなので、香穂子は自分では一番品があると思っている、ワンピースを身に着けて、髪を下ろした。 いつもは掃除がしやすいように“オールドミスの家庭教師風”のお団子ヘアなので、たまにはきちんとしなければと思っていた。 「…あの、日野香穂子ですが、吉羅CEOと約束をしているんですが…」 「はい。お伺いしております。エレベーターで最上階に向かって頂いて、特別役員室前にいるガードマンにお声掛け下さいませ」 「有り難うございます」 いつもはクリーンスタッフとして入っているビルであるから勝手は解っているものの、何だか緊張してしまう。 エレベーターで最上階に上がると、顔見知りになったガードマンに声を掛けた。 「どうぞ、香穂子ちゃんをお待ちになっているよ」 「有り難うございます」 香穂子は頭を下げた後、吉羅の部屋をノックする。 「吉羅さん、日野香穂子です」 「入りたまえ」 吉羅の重厚な声が聞こえて、香穂子は些か緊張しながらなかに入る。 いつも掃除をしている部屋だというのに、今日ばかりは妙に緊張してしまった。 「お邪魔します…」 香穂子の姿を見るなり、吉羅は立ち上がる。 「では買い物に行くか」 「はい。宜しくお願いします」 吉羅は直ぐに役員室から出てエレベーターに乗り込み、香穂子もその後に続く。 何だか緊張してしまい、話すことが出来なかった。 吉羅は駐車場まで来ると、フェラーリに向かって歩いていく。 吉羅にはぴったりな車だと思う。 「吉羅CEOは運転されるんですか?」 「運転手をつけるのは、私の性にあわなくてね。運転するのがストレス発散になるしね」 らしすぎる言葉に、香穂子は妙に納得した。 こんなにも高級な車に今まで乗ったことがなかったせいか、香穂子はまた緊張してしまう。 「…吉羅CEO」 「CEOはいらないよ。ただ吉羅と呼んでくれたら良い」 「では吉羅さん」 「何だね?」 吉羅はハンドルを巧みに切りながら、一般道へと出て行く。 「有り難うございます。こうしてわざわざ時間を作って下さって」 「これも来週のパーティ準備の一環だ。気にしなくて良い」 「…はい…」 “パーティ準備の一環” その言葉が妙に胸に突いて痛かった。 |